農事通信

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明治一一年内務省は農事通信規則を設けた。
  「上下ノ気脈ヲ通シ、各地ノ景況ヲ審シ、除害興利ノ術取長補短ノ法ヲ考ヘ之ヲ世ニ公ニシ農家ヲシテ矜式スル所アラシメントス」
 新政府は、「農ハ衣食ノ源ニシテ国家ノ基本ナリ。一日モ忽(ゆるがせ)ニスヘカラス」として重んじた。開拓使は、農事の奨励のため農事通信の制度を定めた。(函館支庁 開拓使事業報告 二-四八四)。
 明治一二年五月、農事通信仮規則を定め七重勧業試験場の所管事務とした。函館支庁管内の各郡村を三七の区画に分かち、区に通信者一名を置き農事通信委員を当試験場においた。
七月、各村に通信を開き第二第三通信所区域を分かち三九区とした。
 明治一二年九月函館新聞によると農事通信者が次のとおり定められた。
  小安村             尾札部
  戸井村   戸井村寄留     臼尻村  臼尻村五四
  尻岸内村  飯田東一郎     熊泊村  中村彦四郎
  椴法華村            鹿部村   鹿部村四一 高橋松之助
 各区の担当者飯田東一郎、高橋松之助はそれぞれ戸井村・鹿部村の初代戸長となった重立であり、臼尻村の中村彦四郎も同村における役職者である。
 明治一四年四月、仮規則を改正して各郡区役所に通信員を置き、当場(七重勧業)委員との通信を開いた。
 郡区役所は、各町村に適宜通信者を選定して通信の方法をひろめた。
 明治一六年一二月の函館新聞第九六五号に、尾札部村の農事通信がある。
 
  ○農事通信  茅部尾札部村より農事通信に大小豆は播種のころ気候順にして能く成暢し充分の収穫ありたり乃(すな)ハち一反歩に付き二石内外なり又粟ハ播種の節気候順にして生暢至って宜しく結実の頃強風ありしも格別の害を受けず可なりの収穫なり乃ハち一反歩に付六斗内外また蕎麦(そば)は播種の頃ハ炎熱地を焼き降雨絶江て無かりし爲め十中二三ハ枯死し加ふるに強風の損害を被むり収穫ハ僅か一反歩に付き四斗内外に過ぎず(略)(函館新聞第九六五号)
 
 明治二五年、「北海之殖産」に郷土の農耕の詳細が、載っている。
 
   ○茅部尾札部村農事概況(十一月廿五日報)茅部尾札部村勸農協曾通信委員 石川友成
  當尾札部村は釣魚類及昆布鰛、鮭、鮪の海産物は茅部郡中第一に位し各家漁業を専一として農事は其餘暇之を營むに過きず。耕作物は蕎麥、大豆、小豆、馬鈴薯及紫皮の秋薯(茅部郡地方にて「カントウ」薯と云ふ)等にして自家の食用に供するのみ。未だ他へ賣出するの餘分無し。本年の作物蕎麥は平年の作に異ること無し。大小豆は平年より三割餘の豊作なり。馬鈴薯及紫皮秋薯は其畑に依り大小善悪あれとも相應の収穫なりし。蘿萄は凶作なり。麥類は耕作者無し。春蒔大小麥は余一人のみ僅かに耕作せしに粃(しいな)穗及立枯穗多く昨年より三歩五の減にて六歩五程の収穫なり。本年春中、札幌農學校より送種の玉蜀黍を試作せしに、播種の際爹兒(タール)を用へたる爲め、發芽より秋收に至るまで鴉害無く收穫甚た多かりし。當地方に適當する種類と認めたり。依て來年は自家食料に供せんが爲め一□(層)多く之を耕作せんとし撰種して貯蓄せり。其餘分を石臼にて挽き碎き細粉となし之を蕎麥粉に混和し餅となしたるに甚た佳味なり。之を煮るには該粗粉は米より先きに鍋へ入れ一たび煎て後ち米を入れ炊くものとす。(市立函館図書館所蔵)