〔川汲山銀銅山〕

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安政三丙辰年(一八五六)正月一三日
 箱館在六ヶ場所の金銀銅鉄鉛山其の他諸産物類の見分のため、竹内下野守ならびに組頭河津三郎太郎、御勘定役笠原五太夫のほか支配向御普請役等が出張した。
 この現地取調の結果、川汲山銀銅鉱は掘取に着手し、古部・椴法花などは追々願人があり次第掘取を申付けることとなった。
 同月中、伊勢守へ申し上げていた古部銅鉄山は、地蔵町の忠吉が願出て稼方を入れ御手山となった。椴法花も石模様がよいと見定めたが、五月になって休山している。
 このとき組頭河津三郎太郎らは、箱館近在の鉱山開発のため諸山を探査し、とくに大野の市渡や川汲の盛山を手がけている。
 福島屋文書に、金銀山仕事師共病難御救之義云々という記載がたびたび記されている。人里を離れた山中で、土塊を相手の掘削仕事のため、健康を害する者が多かったからであろう。
 このため鉱山師(やまし)に対し薬料として金三分ゟ一両を加えたり、産物会所からの鉱山の使い用品物には課する二割増金をなくしたりした。
 
  匏庵遺稿(後篇)
     砂金  クンヌイの山間渓流中より出る。
     鉛鉱  市の渡村
         ユウラップ山中  寒境のため益なく。
    銀鉱  川汲  費用巨にして一塊をも得ず廃す。
      益田孝の父益田鷹之助(元佐渡の鉱吏)があたった。
     硫黄  恵山  佐原岳
         佐原岳  播州の人高砂屋三郎兵衛(斉藤三平と同く来る者)採掘に着手
         昇り別  在住士生島文右衛門採掘
         樽前  同右
         宇須山