郷土の医療の始め

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 郷土に医師が長期に滞在したのは、弘化年間である。
 記録としては弘化の頃、箱館の医師深瀬鴻斎が臼尻村に滞在した、と松浦武四郎の「蝦夷日誌」に記されている。
 深瀬鴻斎は羽州米沢の出身で、天保年間に渡海し、箱館で医師を開業した。明治期、函館病院の院長であった深瀬洋春・深瀬鴻堂の父である。
 鴻斎の臼尻村滞在は両三年といわれ、医療活勤の記録は不詳だが、下の湯とのかかわりがあったことは知られている。
 一時は下の湯の経営にも当たった。蝦夷日誌に、鴻斎は「物産に志有て此山中委しく穿鑿」したと記している。磯谷の山中で白石英、また、古部の石黄から白銀・朱砂などを精したという。
 鴻斎の臼尻滞在の動機が医療のための温泉に興味があったのか、鉱産探査のためか、また、その両者であったかもしれない。
 明治一九年一月、臼尻村方面の種痘施行のため巡回中の函館病院一等医遠藤俊夫から、臼尻村字板木でジフテリア患者の発生が郡役所へ届出られた。
 森にあった公立茅部病院長村岡格に、臼尻へ出張のうえその手当と予防の施行が命ぜられる。村岡院長は一月二七日早朝四時、森村を出発した。雪中悪路の為、砂原村沼尻より出来澗越えは難行しながら翌二八日午後一時、臼尻村に着いた。
 当時、開業医として、熊村に中村治郎、臼尻村に吉田三辰、辻正高がいた。