縄文晩期にはサイクルにしたがって食料の確保にいそしんでいたが、一方では自然に働きかけ、従来は食料として重要視していたトチノキ・コナラ・ブナなどの植生に代えてクリを増大させ、またソバの栽培に力を注いだ様相が亀ヶ岡遺跡では認められるという。同様に三戸郡田子町の石亀(いしがめ)遺跡でもソバの花粉が発見されており(83)、晩期には恐らく各地でソバは栽培されていたのであろう。
栽培植物については、さきに三内丸山遺跡の記述で触れたが、縄文時代にはそのほかに八戸市是川の風張遺跡で、後期の十腰内Ⅳ群(式)土器期の土層からキビが、同じく十腰内Ⅴ群(式)土器の層ではアワの実(種子)が出土しているといわれている(84)。したがって晩期の亀ヶ岡文化時代には、かなりの栽培植物があって、堅果植物とともに食膳をにぎわしていたことであろう。さらに亀ヶ岡では、晩期終末に近い大洞A式土器の土層から炭化米や籾も発見され(85)、視野を広げると八戸市風張(かざはり)(1)遺跡でも後期終末の十腰内Ⅴ群(式)土器とともに炭化米が検出されるなど、寒冷な東北北部において縄文人は後期終末のころにコメを知り(86)、晩期の終りに近いころはことによるとコメの栽培を手がけていたのかも知れない。現在九州では佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡において、縄文晩期後半の山ノ寺(やまのてら)式土器にコメが伴い(87)、また福岡市博多区の板付(いたづけ)遺跡でも、菜畑遺跡より一時期遅れて夜臼(ゆうす)式土器期にコメが発見されている(88)。東北北部と北部九州とが、年代差を越えて稲の栽培を行っていたことは理解しがたく、近年岡山県において縄文中期の土器の胎土に稲の花粉が混入し、後期の土器に籾(もみ)の圧痕を有するものが発見される(89)など、新しい発見により稲作開始の時期に変更が起こる可能性も高いのである。