後方羊蹄の所在地

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肉入籠・問莵(という)については、渡嶋のうちという以上のことは不明である。問菟については明治時代から、青森の古名「善知鳥(うとう)」と結びつける説があるが、確証があるわけではない。
 ただ後方羊蹄については、現地比定のための若干の手掛かりがある。というのは「しりへし」という音が、アイヌ語のシリペシに近く、その意味するところが「水に臨んだ要害の地」であるからである。その地名の由来である崖山(がけやま)とは十三湊北方の権現崎(これまた日本海交通における格好のランドマークである。同じアイヌ語起源の北海道余市(よいち)のシリパ岬と酷似した地形になっている。写真36)であり、そのふもとの大船団碇泊のための格好の港である岩木川河口の十三湊こそ、シリペシであろう。岩木川河口の十三湖に浮かぶ中島遺跡からは、この比羅夫の時代の七世紀まで遡る可能性の高い土師器(はじき)が出土している(写真37)。なお「しりへし」をアイヌ語の大河と解して、そこから後方羊蹄岩木川とか石狩川と結びつける説が古来多数あるが、それはアイヌ語地名の研究からは明確に否定されている。

写真36 十三湖権現崎


写真37 中嶋遺跡出土の土師器(市浦村)

 当時の蝦夷の拠点が大河の河口付近にあることが多いのは、齶田(飽田)=雄物川、渟代=米代川などの事例から知られ、渡嶋蝦夷の拠点も岩木川河口の市浦村十三あたりにあった可能性は高い。またそれが確かであるとすれば、問莵は、その音の類似から小泊付近の土標(とひょう)であるとする説もそれなりの説得力をもってくる。
 こうして津軽半島北部の蝦夷までが大和政権と朝貢関係を結ぶにいたって、「北征」に一応の目途(めど)をつけた比羅夫は、いったん朝廷に報告に帰り、その功績で冠位を二階進められた(史料二五)。