田村麻呂と頼朝

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のちにも触れるが、文治五年(一一八九)九月、奥州合戦に勝利した頼朝が、平泉から鎌倉へ帰る途中に達谷窟(たっこくのいわや)に立ち寄った際に、「ここが田村麻呂将軍が征夷の時に、賊主悪路王(あくろおう)が立て籠った洞窟である」とする記述がみえる。頼朝がここに立ち寄ったのは、あるいは同じ東北平定の英雄として田村麻呂と自分の姿とを重ね合わせて見ていたことによるのであろうか。また頼朝は、前九年合戦源頼義の故事を重視していたこともよく知られている。
 それはともかく、ここでは賊主が悪路王(写真52)とされていることに注目できる。この悪路王は、話の筋からみて例の阿弖流為とされるのが普通である(ただし、民俗学者柳田國男は、これを悪霊を神として祀る「悪王子(あくおうじ)」の風習に基づくものとしている)。

写真52 悪路王の首像

 一方、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』では清水寺創建の僧延鎮(えんちん)について触れた説話のなかで、田村麻呂が討った相手は高丸であるとしている。さらにそれが『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』では安倍高丸となり、奥州安倍氏一族のうちに位置づけられるようになっている。そして『義経記』では、「あくじの高丸」となり、「あくじ」=「悪事」=「悪路」と、先の悪路王ともつながっていくのである。
 そしてこの悪路王高丸こそ、津軽安藤氏の始祖説話中の重要な人物となっていくのであるが、このことはまた後に触れる。