こうしたなか、安倍氏を制するだけの兵力がない頼義は、出羽山北(せんぼく)の清原氏に対して、甘言をもって官軍の味方を頼むこととなった(史料四四九)。
清原氏の出自については不明な点が多いが、古代には吉彦(きみこ)(吉美侯)と称していた在地系の豪族で、元慶の乱に際して赴任した秋田城司清原令望(よしもち)との姻戚関係を通じて清原真人(きよはらまひと)を名乗るようになった可能性がある。在地性にこだわる安倍氏とは異なり、「真人」と中央の皇親系の姓を名乗ったのである。
そうしたさなか、康平五年(一〇六二)を迎えるが、ここで頼義はまた任終(にんしゅう)となる。征討の進まない頼義に対して、中央政府は、後任に高階経重(たかしなのつねしげ)を充てる(史料四四七)。戦線の打開を目指して馬に鞭をあて意気揚々と都を出発した経重であったが、陸奥国に入ると民衆が皆前司頼義にしたがうという有様で、経重はすごすごとむなしく帰京するしかなかった。頼義としても清原氏との交渉のさなかである。いまここで任を解かれてはたまらない。
ついに康平五年(一〇六二)七月、清原武則(たけのり)が兵一万余人を率いて官軍に加わった。頼義待望の清原軍の到着である。ここに陸奥国軍の主体は清原軍となった。官軍は七陣に編成されたが、将軍率いる第五陣を除く他の陣はすべて清原軍が押領使であった。第一陣は清原武貞(たけさだ)、第二陣は橘貞頼(さだより)、第三陣は吉彦秀武(ひでたけ)、第四陣は橘頼貞(よりさだ)、第五陣は源頼義(そのなかを頼義・武則・国内官人の三陣に分ける)、第六陣は吉美侯武忠(たけただ)、第七陣は清原武道(たけみち)である。こうして官軍は一気に優勢になった。