竪穴から掘立柱へ

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中崎館においてはカマド付きの竪穴住居はまったく認められず、かわりに掘立柱建物跡を中心とした住居形態が検出されている。この掘立柱建物跡を中心とした住居形態は中世社会の基本となるもので、前述した囲炉裏による煮炊という食生活スタイルが広がることと関係している。とくに、古代の集落ではあまり発見されない井戸跡が八基も検出され、それぞれの住居と対応するような状況が認められる。掘立柱建物跡や溝などの遺構は、時間の変遷によって複雑に重複しているため、整理した結果、一三世紀前半を中心として六期に要約すると以下のようになる(図35)。

図35 中崎館遺跡の遺構変遷

Ⅰ期 居住区内に区画性が薄弱で小さい掘立柱建物跡が数棟存在するだけである。

Ⅱ期 南側と北側に区画性を有する溝が構築され、掘立柱建物跡・竪穴建物跡・井戸跡が一体化した関係を有する。

Ⅲ期 大きな溝を掘り込んで居住空間の区画性を高め、多少大きめの掘立柱建物跡と井戸跡によって居住空間を構成している。

Ⅳ期 区画はⅢ期を継承しながら大型掘立柱建物跡と中型掘立柱建物跡・竪穴建物跡・井戸跡がセットとなり、北東側に宗教的施設も配置してこの遺跡の最盛期となる。

Ⅴ期 これまでの区画性とはまったく異質な状況であらわれ、大型の掘立柱建物跡を基本にした区画性がみられるようになる。

Ⅵ期 Ⅴ期の方形区画を継承しながら一種の屋敷割を示す状況が認められる。

 遺物の出土状況を見ると、Ⅲ期、Ⅳ期と考えた区画施設(溝)から、かわらけ陶磁器の出土比率が高く、Ⅴ期以降も一定量出土している。しかしⅢ期・Ⅳ期とⅤ期・Ⅵ期の出土遺物における新旧関係を明確にできないことは、短期間のうちに空間構成の変化がなされた結果とみることができる。
 中崎館遺跡陶磁器かわらけの出土によって年代的な面が理解できるとともに、饗宴を催した空間であることにも留意しなければならない。もし中崎館が饗宴を行うという政庁的な機能を有していたとすれば、このような居住空間の構成を変える要因に関して、居住する人間集団の入れ替わりなどという、極めて政治的な動きも考慮する必要があるであろう。
 以上のように一三世紀前半を主体年代とする中崎館遺跡は、該時期の遺跡として建物跡の規模・配置と使用されていた各種の遺物が把握できた稀な例であり、県内はもとより北奥地域でも貴重な事例として注目されている。弘前市域に中世初期から有力な開発の主体者が存在したことを実証するとともに、氏姓は不明ながら後世の記録などから、安藤氏の拠点であったと考えられる三世寺や藤崎に近接しており、これらとの関連性も否定できない(史料七〇二)。