鎮守府将軍秀衡

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東国を基盤に軍事政権樹立を目指す源頼朝にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、その最大の障害は、いうまでもなく平泉藤原氏の存在である。
 初代の藤原清衡(きよひら)は陸奥国押領使、二代の基衡は六郡押領使・出羽押領使に任じられており、京都の権門と結びつきながらこの地方の軍事指揮権を握っていたとされているが、しかしそれを確かなものにしたのは、嘉応二年(一一七〇)に、三代秀衡(ひでひら)が鎮守府将軍に任じられたときである(史料五二四)。
 秀衡は後白河法皇(写真88)と深い関係を有しており、後白河のご落胤(らくいん)と目される女性まで平泉に預かるほどであった。前節でも触れたが木曽義仲と源頼朝の不和が顕在化したときには、義仲は後白河に迫って頼朝追討の院庁下文(くだしぶみ)を鎮守府将軍秀衡宛に出させている。本来征夷の伝統のうちにある鎮守府将軍が、その軍を南進させるなど、前代未聞のことである。秀衡は奥羽両国の軍事指揮権を握る強力な存在と認識されていた。ちなみに除目(じもく)の上では、安元二年(一一七六)に鎮守府将軍の地位はすでに陸奥守藤原範季(のりすえ)に移っていたが、中央政府はその後も秀衡を鎮守府将軍として処遇し続けている。秀衡が平泉館を現在の柳之御所遺跡(写真89)の地に移したのも、この鎮守府将軍任命が契機であったかと推測されている。京都では「奥州夷狄秀平、鎮守府将軍に任ず。乱世の基(もとい)なり」と見られていた(史料五二五)。

写真88 後白河法皇


写真89 柳之御所跡(岩手県平泉町)