津軽(郡)中名字の世界

240 ~ 241 / 553ページ
一方、『津軽一統志』に付された、地元の地誌として著名な「津軽(郡)中名字(なあざ)」によれば、中世の当地方の郡制については、平賀・田舎・鼻和の内三郡と、奥法(おきのり)・江流末(えるま)・馬(うま)の外三郡とに分かれるとされ、現在の弘前市域の地名は、平賀郡鼻和郡のなかに列挙されている。また内三郡が「鎌倉役」、外三郡が「京役」であるとも記されている(史料九一五・写真102)。

写真102 東京国立博物館本『津軽一統志』附巻

 しかし外三郡の郡名については、同時代史料である中世の古文書類に一切登場せず、津軽地方は「津軽四郡」ないし「津軽三郡」(山辺郡を除く)と総称されるのが普通である。
 また鎌倉役京役にしても実態は不明なうえ、仮に王領(国衙領か)・武家領(荘園か)と同義と解するにしても、本項冒頭で述べたように、奥羽の地は、「郡」のような国衙領においても地頭の権限が絶大で、荘園などと区別できない状況である。また京役を、京都の権門貴族などの荘園領主への負担とする俗説もあるが、津軽が権門の荘園であったとの明証はまったくない。
 こうしたことから、著名な「津軽(郡)中名字」は、中世の津軽の状況を正確に伝えているとは考え難い。そこに記された字名は貴重な史料といえるが、郡名については、近世における所伝としてはともかく、なお慎重な検討が必要であろう。