曽我貞光とその家族

261 ~ 262 / 553ページ
しかし資光は鎌倉時代末期の安藤氏の内紛(安藤の乱津軽大乱)に参戦して早世し(史料六二三に「他界」とある)、光頼の他腹の子と推定される「おとはう(乙房)丸」(史料六二三、斎藤文書、遠野南部家文書・元弘三年〈一三三三〉)、すなわち「太郎光高(みつたか)」(史料六三二ほか)が跡を継いだ。
 この光高は建武二年(一三三五)ころ、名を貞光(さだみつ)と改めている。鎌倉幕府末期の元弘の乱に際して、建武方についた光高としては、北条高時の一字偏諱(へんき)であろう「高」の字を嫌ったのかもしれない。
 以後、祖父泰光や兄資光の名乗りである「与(余)一」を継ぎ、「与一太郎貞光」(史料六六五ほか)、「与一左衛門尉」と称した。なお大光寺系と呼ばれる曽我氏の孫二郎貞光(史料六五二)とは別人である。
 貞光にはその置文などによって三人の子が確認される。資光と同じ童名を与えられた嫡子「犬太郎」と女子「犬夜叉」、「犬熊」である(史料六九〇・六九四)。資光には「いぬなりまろ」という遺児もいたが(史料六二三、貞光を叔父と呼んでいる)、それにもかかわらず貞光の子に犬太郎の名が与えられていることも、貞光と資光とを他腹の兄弟と考える根拠となっている。
 また余一資光の弟かと目される人物に、余二経光がいる(史料六三五)。経光は貞光の所領に乱入しているが、あるいは資光・経光とは他腹の貞光系へ嫡流が移っていくことへの不満が、経光をそうした行動へ走らせたのかもしれない。このことからすると、経光は資光が「一子」(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)と呼ばれていた以後、光頼と「ありわう」との間に生まれた人物である可能性が高い。
 以上の説明をわかりやすく系図化しておく(図40)。

図40 復原・曽我氏系図