北畠親房の政権構想

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後醍醐(ごだいご)天皇(写真152)は、正慶二年(元弘三年、一三三三)六月、北条氏滅亡を受けて京都に帰ると、同年八月に北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守(むつのかみ)に任じ、建武政府の陸奥支配が本格的に開始された。十月には顕家は義良(のりよし)親王を奉じて、父親房(ちかふさ)とともに陸奥へ向かって旅立っていく。時に顕家一六歳、義良親王はまだ六歳の幼児である。陸奥守と並ぶ出羽守には葉室(はむろ)光顕が任じられたが、のちにはその出羽も顕家が管轄したという(『梅松論(ばいしょうろん)』『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』)。

写真152 後醍醐天皇

 建武政府は後醍醐の意を受けて天皇親政を旨としていたと一般には考えられているが、後醍醐のブレーンであった北畠親房はもう少し柔軟な意見をもっており、幕府機構の現実的存在意義を十分に理解していた。鎌倉幕府滅亡後、急速に武士勢力を吸収しつつある足利尊氏を押さえるために、関東の背後の陸奥国を重視し、奥州武士の自立を救(たす)けて建武政府側に引きつけようと考えていた。そのために陸奥国府を「奥州小幕府」的な機構に再建していった。
 また奥羽の得宗領の特徴であった郡地頭職は、郡(こおり)奉行所という形に止揚されていった。郡奉行所は国府の支庁として地方支配の要(かなめ)であり、郡地頭職さえもそのなかに包摂(ほうせつ)しようと北畠氏は考えていたのである。また軍事警察権を持つ郡検断も置かれて、郡奉行の輔佐に当たった。
 郡奉行所へ登用された武士は、関東武士団の庶流中、白河(結城)宗広(しらかわ(ゆうき)むねひろ)・伊達行朝(だてゆきとも)・相馬重胤(そうましげたね)などのような、かつて得宗御内人ないし準御内人であったような有力者が比較的多かった。それは北畠氏が、かつてこの地を独占的に支配していた北条氏の権力構造をそのまま継承・発展させようとしていたことによるものとも考えられている。