長さがわかる例では七寸から一寸五分のものまであり、二寸から三寸の長さの釘が多く用いられているようである。ほかには鎹(かすがい)・手斧(ちょうな)・鋸(のこ)・鑽(きり)・鑓鉋(やりがんな)が出土し、鋸は木葉鋸(このはのこ)といわれる歯の部分が湾曲する古い形態であり、鑓鉋は台鉋(だいがんな)が使用される以前には普通に使われていたものである。
道具の使用に当たっては日常的に砥石(といし)が必要である。境関館では七四点の出土があり、安山岩・凝灰岩・頁岩の製品が認められ、荒砥(あらと)・仕上げ砥の区別がなされている(図53)。このような道具の出土は当然大工が存在した証拠でもあり、大工道具が出土すること自体稀(まれ)な事例であることを考えると、境関館には日常的に大工の仕事をする職人が居住していた可能性も高い。
居住空間のなかで、暖房や夜の灯火はどのようになっていたのだろう。暖房に関しては囲炉裏(いろり)を基本とする生活スタイルが予想されることから、基本は囲炉裏による暖房としても、火鉢(おもに瓦質)の存在から、炭火によって各部屋を暖房する行為も行われ、さらに温石(おんじゃく)という今のカイロのような石製品も存在した。
夜の灯火にしても囲炉裏が基本ではあるものの、他の灯明具の在り方はよくわかっていない。普通は油を使用する灯明皿を想像できるが、この出土例はほとんどなく、蠟燭の燭台もほとんどみられない。ただ、最近まで民俗事例として残っていた松ヤニなどの油を燃やす「シデバチ」といわれる石製の鉢は境関館や浪岡城から出土しているので、石製品を部屋に持ち込んで灯明の用具としていたとも考えられる。
住空間の中で水の確保は大切であり、中世以降の遺跡調査では井戸跡の出土例が多くなる。井戸の作事をみると、中崎館のように曲物を井筒として使用したり(写真174)、浪岡城では隅柱にほぞ穴を穿(うが)って桟(さん)を連結、その上でヒバの側板をはめ込んだ井戸枠も存在し、木材加工の技術的な一面を理解することができる。
写真174 中崎館遺跡出土の井筒
井戸から汲み上げた水を貯蔵するものとして、陶器の甕や曲物が使われていたと考えられ、陶器では珠洲・越前の甕が多い。中崎館からは瓢箪(ひょうたん)を加工した杓子(しゃくし)も出土しており、曲物杓子だけでなく水を飲んだり運んだりする道具もみられる。
屋根の葺(ふ)き方については、茅(かや)を利用したと考えがちであるが、実際発掘調査で茅が出土する事例は少なく、堀越城の堀跡から大量に出土した薄い割板(津軽地域ではマサという表現をし、柾と表記することが多い)を屋根に葺いていたものと考えられる(写真175)。その際の道具としては鉈(なた)のような道具が必要であり、境関館からも一点だけ出土している。
写真175 堀越城堀跡出土の割板