ムラの建物

424 ~ 428 / 553ページ
平賀町の富山(とみやま)遺跡では、平安時代の竪穴集落と中世の竪穴建物跡が重複しながら形成されている。カマドを有しない竪穴で、舌状に張り出した出入り口のある、いわゆる中世の竪穴建物跡だけを抽出すると図55のような分布となる。

図55 平賀町・富山遺跡の中世遺構配置

 このなかで第一〇号竪穴遺構は四隅に柱穴を有するタイプで、この覆土からは陶磁器片や鉄製品銭貨(天禧(てんき)通宝・大観(たいかん)通宝・元豊(げんぽう)通宝・洪武(こうぶ)通宝・永楽(えいらく)通宝・宣徳(せんとく)通宝など)、床面から鉄釘四点が出土しており、ほぼ中世後半の年代を想定できる。この富山遺跡の例のように、中世後半に至っても竪穴建物跡だけ(調査面積を拡大すると掘立柱建物跡を検出する可能性はある)で居住空間を構成している例も存在する。
 黒石市にある板留(いたどめ)(2)遺跡は竪穴建物跡と中世遺物が共伴してみられた例である。道路路線内の調査だったため、竪穴建物跡の全体を調査することはできなかったが、長軸一三メートルに及ぶ大形竪穴建物跡の床面から、陶磁器としては一三世紀前後の中国製白磁と珠洲の甕、そして鉄鏃(てつぞく)四本・錐・鋸・紡錘車・鎺(はばき)などの鉄製品が一括して出土している。この遺跡では竪穴建物跡が単独で存在し、鉄製工具などを使用する集団の住居とも考えることができる。
 村を丸ごと調査した事例として東通村浜通遺跡がある(図56)。

図56 浜通遺跡の建物配置

 浜通遺跡は出土した陶磁器によると、一六世紀末から一七世紀初頭の数十年間という短期間だけ成立した集落で、北西側に塀を有する大形の建物五棟、中小規模の建物六棟、鍛冶関連遺構一基、竪穴建物一棟の居住域と、居住域南西側に位置する小丘陵東面にある火葬墓の墓域からなっている(図57)。生活に欠かせない井戸跡がないところをみると、居住区域の北側を流れる折戸(おりと)川を生活水としていたらしい。また周辺が湿地帯であることを考慮すると、「隠れムラ」のように外部と遮断するような集落の立地となっている。

図57 浜通遺跡の景観復元図(高島成侑氏原図)

 出土遺物のなかには、武士階級の所持品である小柄があったり、舟釘や煙管(きせる)がみられることから、海に関連した武士階層が一族郎党(いちぞくろうとう)を起居させた集落と考えることもできる。出土陶磁器のうち、碗・皿の類は中国製染付および瀬戸・美濃(志野も含む)・唐津を使い、擂鉢に越前・肥前・備前を使用する組み合わせは、日本海交易で運ばれた印象を受け、当時の最先端の食器を使用していた人々を想定できる。とくに、火葬墓群の存在は一般民衆の葬制とは相違し、武士階層の色彩が強い。また、陶磁器の年代幅が狭いことや、遺構の重複が少ないことをみても、長くても数十年の期間しか生活していなかった遺跡と思われ、一七世紀前半の段階で忽然と人々はいなくなる。
 いずれにしても、単なる漁村ではないことは確かである。史料もないため、その実態は不明だが、中世の集落を理解する上で貴重な発掘事例といえる。