写真211 国吉館跡遠景
国吉館跡について、『津軽一統志』「関家文書」では、館主を関惣右衛門(せきそうえもん)としている。関惣右衛門は「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされていることから、国吉館跡が大浦城周辺の中世城館跡の中でも極めて重要な位置を占めていたことがうかがえる。
国吉が東目屋盆地の中心集落であること、館跡が国吉集落に隣接して造られていること、平時の居館にもなる立地であることからもみて、東目屋盆地の盟主クラスの支城といえる(資料編1五一八頁)。さらに国吉城跡の北西側に、堀跡を挟んで「武者溜(むしゃだまり)」と呼ばれる、出撃や防衛のために兵が詰めている場所のような遺構もみられる。さらにその武者溜を通り北側の丘陵地上部に城館跡らしき遺構もみられ、地元の人によると「山伏館(やまぶしだて)」とも呼ばれていることから、背後の丘陵に戦闘時に立て籠る山城(詰城)も備えていた可能性が考えられる。
そのようなことから国吉館跡は支城でもかなり重要な本城的な性格を有していた城館跡であった可能性があるといえる。国吉館跡は大浦城の典型的な支城と考えられるものである。
坂本館跡は東目屋盆地の東の入口で、すぐ南を旧目屋街道が通る要衝の地に位置しており、しかも東目屋盆地では館跡としての規模は大規模なものである。しかしそれにもかかわらず館主の名が伝えられていない。
福村古館跡は、曲輪が三つの平場から構成されており、県内で一般的にみられる家臣居住型城館跡であると考えられるが、この館跡の館主、沿革などもまた不明である。福村古館跡は、水田との比高差が三~四メートルほどで、現在はリンゴ園として利用されている。