宝暦五年(一七五五)には、次のように一二ヵ所みえている。
南溜池東側の土居添の下、西川岸川欠けの所、土手町の土田屋小兵衛家の裏通、御徒町川端川欠けの所、馬屋町の布川文治家の後、五十石町の奥瀬登家の向かい、春日町の外れの長谷河左太郎上明き屋敷、大浦町(おおうらまち)の杉山専太郎家の隣にある御用地、与力町(よりきちょう)内の毛内権蔵上屋敷、北横町(きたよこちょう)の大橋付近の川欠けの所、荒町(あらまち)の後の古川(ふるかわ)添、紺屋町(こんやまち)の町外れの大川添(同前宝暦五年三月朔日条)。
このうち五ヵ所は川欠け(洪水などで川岸の土地が欠け崩れること)の場所か川沿いである。宝暦十一年になると左のように九ヵ所になっている(同前宝暦十一年四月七日条)。
南溜池東側の土居添の下、西川岸町通の外れ、御徒町の川端添、北横町の大橋脇、紺屋町の町外れの大川添、鷹匠町(たかじょうまち)の川添、荒町(あらまち)の後の古川添、五十石町東側の御馬寄場、大浦町御用地大湯彦五郎家の隣。
九ヵ所のうち川沿いが四ヵ所、大橋わきが一ヵ所である。塵芥捨場は時代により増減はあったと思われるが、右のことから城下にはおよそ一〇ヵ所程度設置されていたことになろうか。