操(あやつり)人形芝居は、操・操人形・操芝居とも呼ばれた。糸操や仕掛けによる人形は、浄瑠璃芝居の三人で遣(つか)う手遣(てづか)い人形になった。宝永年間(一七〇四~一〇)からは竹田出雲(たけだいずも)の経営で近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)と竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が活躍した。
津軽領内では慶安二年(一六四九)六月にあやつり太夫の興行があり、大当たりとなった(「秘苑」)。正徳三年(一七一三)五月には玉屋伊右衛門の操興行があった(『永禄日記』)。また、上方の竹田弥五郎によりからくり興行があって、多くの見物人があったという(同前)。
江戸藩邸では宝永四年(一七〇七)一月十二日に、藩主家の人々を客とし、信政が田村藤大夫・吉村宗利・木屋庄八にも相伴させ、操を演じさせた。太夫は土佐掾(とさのじょう)で、浄瑠璃の前中書王が終わって中入りとなり、奥で料理二汁八菜が出た後に浄瑠璃の花軍となった(「江戸日記」)。この時、桂林院、土井利房の正室、信敏の正室・側室も同席したようである。
能楽・歌舞伎・操人形芝居は、武士・庶民の娯楽として人気があった。特に相撲は女子の見物が許されないところから、これらの演劇には女子が多く集まったものとみられる。