慶応三年(一八六七)十二月九日の小御所会議(こごしょかいぎ)で決められた徳川氏の辞官・納地を不服として出兵した旧幕府側と薩長反幕府側との戦いは、明治元年(一八六八、慶応四年、同年九月八日に明治に改元されるが以後、繁雑さを避けるため、明治元年の表記に統一する)一月鳥羽伏見(とばふしみ)で口火が切られた。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は早い時期に恭順の姿勢をみせていたが、根強い一部の旧幕府勢力の反抗と朝廷側の反対勢力払拭の意向とが交錯してしだいに戦いの地を北へ移し、東北諸藩の徹底抗戦にまで発展していった。鳥羽・伏見の戦いをはじめとする一連の内戦は、翌年の箱館戦争(はこだてせんそう)終結まで続いたが、この内戦を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。
幕藩体制の崩壊を決定的なものとし、日本が近代国家への道を歩みはじめるその一大変革がなされたのが明治維新であり、その象徴的な事件がこの戊辰戦争といえよう。近世から近代への転換点にさしかかったとき、津軽弘前藩は藩体制の存続を第一に考え、時局を乗り切ろうとした。本州の北端に位置し、比較的早くから外国船の接近による対外危機を自覚していた同藩は、北辺の守りを「第一之公務」(『記類』下)として自らに課すことで自己存続の道を確保しようとしたのである。
しかし、混迷する中央政局を目の当たりにしたとき、時流に鋭敏とはいえなかった同藩は、自藩の方向性を定めるのに、決定的な判断力を持てなかった。そしてそのことが、戊辰戦争期における藩の行動をも規制することとなっていった。時代の転換点にさしかかった同藩は、どのように時局を乗り越え、その存続を図ろうとしたのであろうか。