さて、津軽弘前藩の国元では政情に不安を感じつつも、ほぼ例年のとおりに年頭行事が執り行われていた。しかし、同藩の京都藩邸では、他藩に漏れず情報収集と事の対処に大騒ぎだった。
一月五日、京都詰藩士二人が勃発した戦いの視察に派遣された。ここではその報告(資料近世2No.五〇五)を念頭に置きながら戦いの様子を探っていきたい。
視察の命を受けた手塚郡平と村田鐵一朗の二人は、まず東寺辺りで情報収集を始めた。東寺には前日から勅使仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が本陣を置いていた。そして、ここに差し立てられていた錦旗が新政府側に天皇がついているという何よりの証であったのは周知のとおりである。
次いで下鳥羽の辺りを訪れた両名は、そこで三日夜より四日昼まで行われた戦いの跡を目の当たりにした。潰れた家や死者を確認し、その様子を記しているが、それは、旧幕府軍不利の状況を象徴するようなものであった。やがて二人は戦いの後を追ってさらに南下していった。下鳥羽と淀の途中にある横大路村が五日の開戦場所であった。戦場となった村には人家を小盾とした戦いの跡がみえ、そして、勅使である仁和寺宮らが「錦の御旗」二流を差し立てて滞陣し、広島藩の人数二〇〇人くらいが警衛をしている様子を確認した。戦いは旧幕府軍がさらに南へと押され、淀まで至っていた。この状況では援兵がなくては、淀城が危ういだろうと現場報告を締めくくっている。
続けて、下鳥羽から淀の間、四ツ塚・横大路・淀領には薩摩・広島の手勢が検問を張っていたこと、戦いは砲撃戦であり、刀や槍はその補助にすぎなかったこと、そして新政府軍は負傷者を病院へ送り、兵糧や弾薬等の補給もおびただしく行っていたことを報告しており、これらも新政府軍優位の状況を明確にするものであった。幕府の後続軍が投入されないために劣勢であると思われるが、幕府軍側の様子はわからない状況である、とその視察報告を総括したのである。
一月六日、旧幕府軍は淀から木津川を越え、大坂寄りの八幡と橋本に退いて薩長軍と対峙(たいじ)した。しかし、山崎の関門を守る津(つ)藩は勅使を迎え、結果として朝廷に帰順を誓った。津藩が幕府勢に攻撃を始めるに至り、旧幕府軍の敗北が決したのであった。錦旗を戦場最前線近くまで進めたことによる影響力は絶大であった。このように旧幕府軍から離反する藩が相次いだのである。