庄内戦争の結末

243 ~ 243 / 767ページ
再び秋田藩の南境に目を転じると、新庄落城後、山道より秋田へ向けて進攻していた庄内藩は院内を通り、湯沢・横手を陥落させて、八月十六日、大曲(おおまがり)まで到達していた。ここで角館(かくのだて)攻防が始まるのである。大曲は雄物(おもの)川を挟んで角館と向かい合う地形であった。同盟軍、総督軍の一進一退の攻防が続いたが、やがて総督軍に佐賀・長州・薩摩・平戸藩などから応援兵が続々と秋田に上陸して各地へ出兵を重ねたため、しだいに官軍有利の状況に転じてきていた。総督軍の迅速な軍備や人員・物資の補給や活動によって、とうとう八月二十八日、角館を攻めた庄内藩は、西南諸藩を中心とする鎮撫総督軍の前に敗北した。
 一方、海道口の戦況にも変化が表れたのは八月十八日。応援兵の参戦とともに、薩摩藩の軍艦春日丸が秋田藩の援護に導入されたことが大きかった。海からの砲射には、庄内藩は対抗策を立てられずに逃げまどった。このため、同藩の進撃は止まり、逆に、新兵器や兵員が増強されつつあった総督軍がようやく有利になり始めたのである。
 九月八日、この両方面からの同時攻撃が庄内藩ら同盟軍により行われた。起死回生をねらった作戦である。この時角館方面には総督府の沢副総督も詰めており、一時は退却を余儀なくされる状況に陥ったが、最後には政府軍の軍事力が勝り、九月十八日、総督府の勝利が決定的なものとなった。同日庄内藩兵は鶴岡に向けて総退却を開始し、九月二十七日、正式に降伏を表明する。既に九月十五日には仙台藩も降伏をしており、庄内藩としても孤立した中での戦争続行は不可能であった。こうして庄内戦争は幕を閉じたのである。