以下、各戦争報告書・
記録に基づき、
野辺地戦争の経過をみていきたい(同前No.五五〇)。木村繁四郎の率いる六小隊は、九月二十一日、
城下を出発して平内を抜け、九月二十二日夜、三隊に分かれ進軍した。そのうち三小隊は
小島左近らの指揮下に置き、他の二小隊には間道を進ませ、一隊を伏兵隊とした。そして残りの三小隊を本隊として、街道を進み、狩場沢から馬門関門へ向けて砲撃を加えたのである。しかし、功を急いで馬門村に
放火したため、周囲が火に包まれてしまい、本隊の
大砲は通行が困難な状況に陥ってしまった。時は刻々と過ぎ、やむなく海湾通りからの進軍を決定したのであった。いよいよ戦闘が
野辺地川付近で開始されると、小銃・
大砲による砲撃戦となり、
盛岡藩は退却の様子をみせた。弘前藩側は、
盛岡藩兵が退きはじめるとさらに追撃したが、
野辺地を目前にしたところで、
盛岡藩兵の待ち伏せを受けたのであった。
盛岡藩陣営は、小高い場所に砲台を設置し、家屋や木々に身を隠し、弘前藩兵を攻撃した。勝負は一瞬の出来事であった。弘前藩兵は身を隠すところもなく砲撃され、負傷者が続出した。作戦は夜討だったにもかかわらず、段どりが悪く、翌朝を過ぎても、戦いは続いたため、身動きのとれなくなった弘前藩兵は次々と
盛岡藩兵の的となり、逃げまどう姿は無惨であった。
図64.明治元年9月23日の野辺地戦闘図
この戦いでの弘前藩側の死傷者は一八〇人中実に四九人に上った。対して
盛岡藩側の死傷者は、およそ一〇人ほどにすぎなかった。
図65.野辺地戦争戦死者の墓
敗戦の原因は、弘前藩の統率性の欠如、認識の甘さに集約されるであろう。夜陰に紛れての海陸両方からの攻撃も意味をなさなかった。