農民の家屋はこれまで柾屋根も認められていたようであるが、正徳四年(一七一四)からは必ず萱屋根にするよう、藩から郡(こおり)奉行へ申し渡されている(「国日記」正徳三年七月二十七日条)。幕末の天保期に入ると、天保元年(一八三〇)六月六日に油川(あぶらかわ)村(現青森市)の大火で六〇軒が全焼した(『津軽史事典』一九七七年 名著出版刊)。そこで藩では復興のための緊急事態と、この村は萱があまり採れない地域であることを考慮して、特別に柾で葺くことを許可した。しかし、屋根を葺き終わった後に、村ではすぐに藩へ連絡することを怠ったので、村役人をはじめとして戸締め(日数不明)の刑が科されている(「国日記」天保三年四月十二日条)。
さらに嘉永六年(一八五三)十二月には、柾屋根が禁止であるにもかかわらず、近年は柾屋根が目立つので厳重に取り締まるよう命じられている(同前嘉永六年十二月十七日条)。
右のように、一般農民には屋根を葺く材料として柾は認められておらず、萱が原則であった。江戸時代を通じて、消防力が弱体であったため大火になることが多く、二桁~三桁の類焼軒数はめずらしくなかった。類焼直後の再建に際しては萱が不足となり、藁・杉皮・板・柾など何でも利用された。