その後「国日記」安永二年(一七七三)閏三月三日条によれば、農民あてに出されたものであるが、町人も農民に準じて倹約をするよう命じられたことが知られる。その内容は、
(1)平日には雑飯(雑穀・野菜を混ぜたカデメシか)を食べること。ただし病人および六十歳以上の老人は、祝言などの来客があった時は粟飯と白飯を認める。
(2)正月・節句・盆休日などの際は、粟飯・雑飯を食べることは認めるが、白飯は禁ずる。
右の規定によれば、正月でさえも白飯を食べることが出来なかったことになろう。
「国日記」寛政二年(一七九〇)二月十一日条には、日常のほか出会・婚姻・仏事などの食事は一汁二菜を厳守するようにとみえている。それ以後幕末まで、右の寛政二年の条とほとんど同じものが「国日記」享和三年(一八〇三)八月七日条(資料近世2No.二三五)、文化四年(一八〇七)十二月十五日条、文化八年九月一日条、文政十年(一八二七)十二月二十八日条、天保十二年(一八四一)十二月二十九日条、嘉永六年(一八五三)十二月十七日条にみえる。これらによって、食事は平日と冠婚葬祭のような特別の場合も同じに規制されていたことが知られる。