その後、天保三年(一八三二)十二月には、このような方法では入浴者が少なくなり(女性があまり銭湯を利用しなかったためか)、薪の値上がりもあって、銭湯では採算がとれないため、一日の中で時間を区切り男女を分けて入浴させるということになった(「国日記」天保三年十二月十五日条)。
翌四年四月には、男女の入浴に時間差を設けて区別しても、実際には時間差が守られず混浴している状態がみられ、銭湯側では混浴をやめさせるのが困難で、再び日割りの入浴に戻している(同前天保四年四月二十四日条)。同年九月になると、日割りでは町人や遠くから来る者にとって(城下周辺の農村か)不便であり、そのため入湯人数が減って銭湯経営が困難になるので、天保の飢饉の非常事態でもあるから、混浴を許可してほしいとの申し出があり、藩ではやむをえず「当分の間」と期限をつけて承認している(資料近世2No.二六二)。
城下の銭湯は庶民に利用された社交場の一つでもあったが、混浴を認めざるをえない状態になったのは、風紀が乱れ幕末の封建社会の秩序が崩れてきたためであろう。
図128.柘榴口
図129.風呂屋の看板