享保元年、上方へ注文した紙類の中に小紙一五〇締めが含まれていた。この二年前に小紙一束(二〇〇枚)二匁五分であったから、それで計算してみると金一〇〇両ほどになる。このほかに書状用の半切紙一二万枚なども注文しているから、紙買入れ代金は相当の金額であった(小紙一締めは一〇束・二〇〇〇枚)。
喜兵衛の答申に基づき奉行が作成した申し立てには、領内の紙漉の状況と半紙増産の方策が詳細に記されていた。喜兵衛は、楮さえ多く確保できれば、いくらでも半紙を漉き出すことができるが、楮不足なので、一五人の弟子たちが領内を駆け回って反古を買い集めて渡世していると申し述べた。もし年中操業できるほど楮があれば、一ヵ年に半紙二二五〇締め(四五〇万枚)の生産可能である。御用に必要な半紙は年六〇〇締めだから余分は市中に払い下げにすれば、損はないとも述べている。
喜兵衛の親が紙漉をしていた時に、楮を仕立てさせた楮新田として次の地名を挙げているが、近年は入手できる楮は皆無だという。
紙漉沢 薗(その)村 鳥井野 十河(とがわ) 大川 目屋野沢 竹鼻(たけはな) 追子野木(おこのき) 深沢(ふかさわ) 唐川(からかわ)村 広船(ひろふね)村 尾崎(おさき)村 田舎館(いなかだて)村 乳井(にゅうい)村 八幡館(はちまんだて)村
また、山楮のある場所として外浜の沢々、中村・赤石の沢々など数ヵ所を挙げている。
喜兵衛の申し立てによって三奉行から一人ずつ楮仕立て司取役が任命され、事業を推進することになった。直ちに村々に厳しく楮仕立てが下命され、植え付け不振の村々からは誓約証文を差し出させた。