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国日記」宝暦四年(一七五四)十一月四日条には、民間からの申し立てによる
地織木綿の普及について、また天明八年(一七八八)七月八日条には、糸綿を下し小給の御
家中の妻女に手織をすすめている記述が認められる。さらに、藩では寛政三年(一七九一)に
上方より篠巻綿(篠綿)を
移入し、禄二〇〇石以下および御目見以上(俵子・
金給の知遇)の
家中で希望の者に貸与し、妻女に内職として綿布を織らせている。もともと生計の資とさせる目的であったが、その後しだいに普及し、弘化三年(一八四六)ごろには地藍も相応のできばえとなり、それとあいまって御国手織
木綿はしだいに増産の道をたどっていった。近代に入り
弘前手織と称された
地織木綿は機械化が進み、
弘前木綿として一九五〇年代ごろまで織られている。
図140.弘前木綿