稽古館では先聖先師(孔子とその門人)の霊を祀る
釈奠(せきてん)(犠牲(いけにえ)を供えず蔬菜を供えて祀る場合は釈菜(せきさい)という)と
養老の礼式が格物堂・善誘堂で定期に挙行された。とりわけ
稽古館開設後の最初に行われた寛政九年(一七九七)二月二十六日の釈奠は、礼式にのっとったリハーサルが周到に行われ、
藩主信寧自らが
稽古館に臨み、祭酒として「初献」(祭典儀礼で最初に御霊に酒を献ずること)を務め、盛大であった(資料近世2No.三三三)。以後、文化三年に至るまで一一回挙行された。初期のころは春秋二回、
藩主もしくはその代理として
家老が祭酒となってこれを司った。後には年一度で総司が祭酒を務めるよう簡素化されていった。財政事情の悪化や釈奠の儀礼に対するある種の距離感が作
用したのであろう。釈奠での供物としては羊、牛が捧げられるのが本来の儒礼ではあるが、本藩で挙行された釈奠の儀式次第をみてみると、「鶏・雁」などが
用いられ、
日本における儒礼の受容の様相を考えるうえで興味深い(同前No.三二八)。獣肉忌避の習慣から、四つ足動物は避けられたのである。
図164.釈奠「釈菜御儀式」冒頭
釈奠儀礼に対する
家中の者たちの受けとめ方には醒めたものがあった。
二月釈奠あり。
学校の面々何れも素袍、烏帽子、直垂にて、その規式中夏(中華)にひとしく、進退礼楽(れいがく)あり、皆立礼にしてその静かなること譬うるものなし。御
家中の諸士も拝見仰付けられ、朝六ツ時より夕七ツ時まで立ち、くたびれて大いに難儀せり(「遠眼鏡」)
異国風の儒礼の盛儀は、武士の現実の生活感覚からは、かなりかけ離れたものに映ったのである。