文化年間以降、稽古館は藩財政の逼迫から縮小を余儀なくされ、月に六度あった学問所での儒書と兵書の講釈も、ついに月に二度へと削減された(資料近世2No.三一四)。それでも時代の要請に応じて幕末期になると、西洋兵学や蘭学、武芸が奨励され、総じて「実用之学風」を宗とすることが強調された。弘化三年(一八四六)十月、和漢の学に広く通じていた兼松成言(号は石居)が西洋兵学を兼学するよう命じられた。兼松は藩の命により昌平校に入り、朱子学の立場を取りながらも西洋の新知識に多大な関心を持っていた古賀侗庵(とうあん)に学び、また当時一流の蘭学者杉田成卿(せいけい)と交わり、彼らを通して西洋事情にも通じた。安政元年(一八五四)六月には、成田善三郎に西洋学を学ぶため杉田成卿、杉田玄端(げんたん)への入門が命じられた。