斎藤規房

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信政が吉川惟足(よしかわこれたり)に師事したことから、本藩では吉川神道との関係が深い。信政時代に諸礼師範として召し抱えられた斎藤規隆の四代目に当たる斎藤規房(のりふさ)(一七六九~一八三九)は、規敦の子として弘前城下に生まれた。若年より吉川従門の門人後藤善佑について、神道と和学を学んだ。天明九年(一七八九)、ゆえあって父子ともに藩籍を放たれ、寛政二年(一七九〇)江戸に出て吉川従門に入門し、同七年まで就学した。その後弘前に帰り、寺子屋を開いたが、文化六年(一八〇九)再び召し抱えられて、同十年十月には国学師範を命じられた。文政五年(一八二二)四月、重病に陥った吉川家五代従方からの懇請に応じて、再び江戸の吉川家に詰め、従方の嫡男四方之進(従五)の教育を担当したり、従方の代講を務めたりした。同八年八月吉川家を辞して帰藩し、翌十一年十一月学問所の和学方御掛に任じられ、同十二年十月高岡神社の祭司手代、同十三年二月には祭司を命じられた(「吉川神道関係資料 津軽藩斎藤家文書(抄)」『神道史研究』第四七巻第二号)。彼の編著「神書講述習之心得」では自己意識を突破して、無心の内に神に帰一する「神人一致」の吉川神道の奥義が伝えられている。