幕末期の弘前では、神官層とはまた別に、比較的富裕な町人層を中心に平田派国学の積極的な受容が図られた。鶴舎有節(つるやありよ)をはじめとして、彼の紹介で今村真種(みたね)、岩間滴(したたり)、三谷大足(みたにおおたり)、増田幸太郎、植田平吉、竹田清次郎、笹木淡路、小野若狭、笹木健作、平尾魯僊(ろせん)といった人々が、平田篤胤没後の門人という形で篤胤の婿養子銕胤の門下に名を連ねた。彼らの間には、書面を通して銕胤と交わり、篤胤の著作を購入し、学問的精進を目指して互いに切磋琢磨するような、学びの場が形成されていた。この津軽国学社中と称してもよいような知的サークルの中で、中心的役割を果たしたのが鶴舎有節(一八〇八~一八七一)である。鶴舎(本名武田乙吉)は鶴屋宇兵衛の次男で、幼年より富豪伊香八太郎の家に奉公し、毎夜、津軽俳壇の重鎮であった内海草坡(うちみそうは)(一七六一~一八三七 名は公民)の家に至り、俳諧、書法、漢籍を学んだ。草坡は津軽における「古道学」唱道の嚆矢であったという(「三谷句仏筆記」『伝類』)。草坡門で魯僊と出会い、意気投合し生涯無二の親友となる。有節は古道学を好み、安政四年(一八五七)に銕胤に入門し、平田学の普及に努めた。編著に「磯の白玉」・「皇祖宮所考弁」・「顕幽楽論」・「岩木山神霊記」・「古道糸口」・「鶴舎文集」等々がある。死後の霊魂の行方を論じた「顕幽楽論」で、有節は「現(うつ)し世も、亦幽(かく)り世も楽しける我皇神の道ぞ正道」と、篤胤の幽冥論を発展させ、死後は楽しみに満ちた世界であることを説いており、興味深い。