明治九年の巡幸

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明治九年(一八七六)の巡幸は、本来前年の八年に行われるべきところ、時の政治社会情勢にかんがみて一年延期されたのであった。そのころ、明治新政府は発足したものの、各地に不平士族たちの不満がくすぶっている状態であり、新政府は、必ずしも全国的支持を得ているとは限らなかった。このような状況にあって、いかにして全国的統一をはかり、人心を一つにまとめるかというのが最大の課題であった。そのためにも天皇の各地への巡幸は大きな意義を持った事業であった。この九年の巡幸が終わって間もなく、熊本では神風連(じんぷうれん)の挙兵(肥後勤王党保守派の流れをくむ敬神党が起こした士族反乱)があり、続く翌十年には西南戦争が開始されるなど、天下の風雲ただならぬものがあったさなかでの巡幸であったことがわかる
 明治九年の巡幸は、天皇の車駕が東京を出発したのは六月二日、関東、東北各県を巡幸の上、青森に到着されたのは七月十四日、青森から北海道へ渡られ、各地を巡幸の後、帰途は軍艦を利用して東京へ直航された。このころ、東北地方にはまだ鉄道がなく、道路や交通状況は藩政時代そのままといっていい状態にあった。天皇は時には馬車または輿(こし)、時には馬上と乗り物を替えられたが、側近者や従者の数だけで二〇〇人を超えるという人数であった。したがって、これを迎える現地の諸準備も大仕掛けのものとならざるを得なかった。
 この九年の巡幸においては、各地の産業や教育の奨励に異常な熱意がうかがわれたが、本県においても、青森において、全県下にわたる教育奨励の事があり、これは弘前の教育の歩みに深いかかわりをもった。青森到着の翌十五日、青森小学において天覧授業が行われた。これには弘前から選ばれた白銀小学生徒一〇人と東奥義塾生徒一〇人が参加した(本節第三項、第四項参照)。また、巡幸を機として県下各方面の功労者五人に褒賞の沙汰があった。弘前関係では、武田熊七(金木屋)が木戸内閣顧問から褒詞を伝達されている。