女子教育

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東奥義塾女子教育も行った。同校では明治八年から十四年にかけて、毎年約七〇人から一〇〇人ほどの生徒が学んだ。その様子は、イング夫人が母国に送った書簡によって伝えられている。たとえば一八七五年(明治八)六月十五日付の手紙には、二〇人ほどの女の子たちの習字の学習風景に関する部分があり、そこには、女の子たちが楽しそうに学んでいる様子が描かれている(青森県女性史編さん委員会『青森県女性史 あゆみとくらし』青森県、一九九九年参照)。

写真48 イング夫人が母国に送った書簡が掲載された『グリーンキャッスルバンナー』紙

 やがて、イング夫人自身、女生徒たちに英語や裁縫、編み物も教えるようになった。夫人の教え子たちは、皆まじめで行儀がよく、のみ込みも早かった。当時の青森県は男尊女卑の風潮が根強かったが、その中にあって東奧義塾の女生徒や教師は人権意識が高く、男女を問わず学ぶことの意義も理解していたようである。たとえば同校で明治十一年に教師として勤務した脇山つやは、明治十年に『七一雑報』に二度にわたって投書しているが、その中で学ぶことの重要性を論じている。
 こうして、女子にも英語を教えるなど、当時としてはきわめて開明的であった東奥義塾小学科女子部は、明治十五年に廃止となった。弘前における女子の私学教育は、その後函館に開かれた遺愛女学校、その分校として明治十九年に本多庸一等によって弘前教会内に設置された来徳(ライト)女学校、さらにその後身の弘前遺愛女学校、そして弘前女学校と続いた。明治前期弘前の女子中等教育は、明治三十年に県内初の高等女学校が開校するまで、東奧義塾から始まり私学で受け継がれていった。

写真49 東奥義塾の女生徒と女性教師(明治10年)