公立の亀甲小学が開設された七年四月、第一五中学区内だけで二三校が私立小学校として設立を許可され、五月には一〇校、六月に四校、八月に一校、九月には六校、さらに十二月には一校が許可された。
私立小学校と名乗ったものの、従来の寺子屋にすぎないものが多かったが、これは政府による私立小学校設置奨励方策によるもので、弘前地区における公立小学増設の遅れを肩代わりする役目を果たした。乱立の原因の第一は、士族階級の窮迫である。廃藩置県以来三年を経過して、家禄を失った旧藩士族がようやく窮迫し始めたころで、糊口をしのぐ手段として私立小学校を設立したのである。第二に、公立小学校の設置によって民衆の学問熱が誘発されたことによる。新時代に即応するには学問が必要なことを、子どもはもちろん親も気づいて、学校で学ばせようという気運が沸き起こったことである。第三に、公立小学校ができたものの、校舎の狭隘(きょうあい)、設備の不備などで、入学を希望するすべての生徒を受け入れることができなかったことによる。また、士農工商の子弟に同一の教育を施す公立小学の教育を、一部士族の中には忌避するものがあったなど、私立小学校の乱立は当時の世相の一端をうかがわせる。しかし、これら私立小学校の多くは、公立小学校の校舎や設備が整備され、その数が増加すると、二、三年のうちに消滅してしまう。