明治十二年(一八七九)九月、政府は、従来の学制の持つ中央集権的性格に大幅な修正を加え、「教育令」を公布し、翌十三年十二月、さらにこれに改正を加えた。これを「改正教育令」というが、「改正教育令」は、学制における民意を無視した学事の押しつけを緩和し、地方の実情に任せるというものであった。
改正教育令により、従来の小学区に替え、数ヵ町聯合による「学聯区(がくれんく)」を設けることができ、一校の建築が容易になった。また、県の役人であった学区取締が廃され、学聯区から選挙で選ばれた「学務委員」がこれに代わることになった。このころには、一般民衆にも学校教育の重要なことが徹底してきて、私立小学校も次々と公立小学校に切り替えられ、私塾や家塾も姿を消し、公立小学校一本となった。
また、これまで「小学」と呼ばれた呼称は「小学校」と改められ、修学年限の下等・上等ともに四年であったものは、小学初等科三年、中等科三年、高等科二年の計八年となった。しかし、青森県では県民の経済力を考慮して、修業年限延長は不可能と判断し、県独自に尋常科十級制度(一年に二級進級し十級卒業、計五ヵ年)を採用した。しかし、尋常科十級制度は二年続いただけで十五年に廃止された。