明治九年(一八七六)二月二十五日、青森県参事塩谷良翰は、県会での医学生教育の審議の中で、「弘前会社病院中へ医学局ヲ置カセ生徒ヲ教育セント要ス」として県内各大区から五〇〇〇円の大金を集め、さらに県税金を投入して弘前に医学校を設置することにした。医学生の指導者として、東京医学校卒業の中村良益を招聘し、十年三月一日青森県立弘前医学校を親方町に開設した。学生の募集は一大区ごとに三人、県内から二七人を公費支給とし、他に二三人は私費生とした。しかし、計画のとおり生徒が集まらず、教員三人、生徒三〇人で発足した。修学課程は東京の大学東校(現東京大学医学部の前身)の制度を斟酌(しんしゃく)して三ヵ年とした。
開校したが、弘前医学校は所在が西に偏在していて、県内各地から在学するのに不便だということで、一年足らずで翌十一年十二月二日をもって青森浜町に移転してしまった。移転は山田秀典県令の布達(十一年十一月)によって決定し、青森では教場や生徒控室まで新築という手回しのよさである。しかし、移転の原因は弘前にもあった。弘前医学校設置のとき弘前は、県会議員たちの充分な諒解をとらず、塩谷参事と馴れ合いで決定したことが尾を引いていた。ところが県令が山田秀典になると、これまでのことは一切廃して、医学校の設置地を青森に変更したのである。これに不服の弘前人士は、政治力を使って医学校の弘前への奪還を策した。
弘前側の政治的反撃に山田県令も辟易(へきえき)したと見え、十三年に至って「追々弘前ノ形成ヲ見ルトキハ段々ノ具陳一理アリ、地勢又止ムベカラザルモノアリ」として、魚住完治医学校長にその決定を委せることにした。魚住校長は「(一)青森ハ土地卑湿(二)飲水悪シ(三)海港ノタメ風俗淫猥(四)物価高シ」とし、「弘前ハ皆是ニ反シ(一)土地高燥(二)飲水宜シ(三)風俗宜シク海港ノ比ニアラズ(四)物価二、三割ノ下値ナリ」として弘前を支持したので、県立医学校は弘前へ移転した。しかし、再移転した弘前医学校も、十八年三月三日、県の財政不足のため廃止された。