弘前市政の乱れ

266 ~ 267 / 689ページ
明治四十四年三月十一日、四十三年度歳入出追加予算審議の市会が開かれた。その議場で、幸徳秋水らの『平民新聞』に出資し、日比谷焼打事件にも参加した経歴の持ち主竹内兼七が次の質問をして、市政の乱れを指摘している。
第一読会ニ於テ三十番アタリヨリモ質問アリシ給与金ノ事ニ就キ而モ五名ノ吏員ノ解職ニ就キ蛇足ナガラ質問的ノ意見ヲ述ベテ置キタシ 前以テ御断リヲナス置クガ時局柄奇ヲ好ミテ云フモノニアラザルヲ以テ其辺ハ予メ御含ミアリタシ(注、この年一月二十四日、二十五日に大逆事件幸徳秋水らが処刑された)扨(さ)テ五名ノ吏員ノ解職ヲナセシハ経済上カ何カノ都合上ナルヤ又事実上何等カシラノ意味ニ於テ突如解職ヲ試ミシヤ其真相ヲ承リタシ 風説ニ依レバ上司ニ対シテ無礼ナル行為アリシ為メ懲戒的ニ解職セシモノナリト云フ事ヲ聞キ及ビタリ 若シ果シテ其レガ事実ナラバ何故ニ当然懲戒処分タル譴(けん)責ヲ先ツ試ミザルカ其ノ理由ヲ詰責セザルヤ 本員ガ尚ホ耳ニスル巷説ニ因レバ市参事会ノ決議ヲ実行センガ為メニ当時市長代理者タル佐田助役ハ夜中巡査ト数名ノ壮士輩ノ如キ者ヲ五、六名モ引率シテ而モ何レカノ私宅ニ於テ作製セル辞令書ニ捺(なつ)印スルニ来リシト云フ事ヲ聞キタリ 何ヲ好ンデカ職務ヲ施行スルニ斯カル百鬼夜行的行動ヲ敢テセシヤ 斯クノ如キハ即チ市政ノ紊乱(びんらん)ト云フベキモノナリ 又辞令書ヲ発スルニ小使ニ持タシテ遣レバ事足ルベキニ其レニテ実行ニ成リ居ルニ事更ラ一通ノ書状ニ三十銭ノ郵便切手ヲ貼付シテアリシトハ仮令(たとい)事小ナリト雖モ斯ノ如キハ市費ノ濫費ト云フベキナリ 而シテ解職セラレタル吏員ハ全部翌日任用ノ辞令ニ按シ居ルトハ イヤハヤ奇体奇妙ナ次第ナラズヤ 首ヲ取ッタリ繋イダリ恰(あたか)モ人形芝居見タ様ナモノニテ、余リ吏員ヲ翫(がん)弄具ニセヌ方ガ宜シ 政争ナドノ渦中ニ投ゼヌ様ニスベシ 而モ直チニ任用スベキ人々ヲ能ク商量モセズニ解職スル様ナ茶カ/\ナ事ガ乃チ市政ノ腐敗ト目サル素因トナルモノナリ昨今市政紊乱トカ市政ノ腐敗トカ市費ノ乱費トカ詭激ナル極端ナル言辞ヲ弄シテ無智ナル市民ヲ煽動シテ居ル者スラアル場合 余リ盲動的ノ事ヲセズニ再ビ斯ル浅薄ナル芸当ヲ演セヌ様ニ能ク/\熟慮シテ誠心誠意革新刷新ノ御心掛ヲ以テ市政ノ処理ニ当ラレン事ヲ希望ス

 と異様な市役所の雰囲気をつき、さらに佐田正之丞助役の欠勤の多いことも問題にした。
 これに対して、佐田助役(彼は四十一年五月から四十四年九月まで県会議員で、当時議長でもあった。弘前市は明治三十九年三月小山内鉄弥市長のとき市条例を改正して助役の定員を二人とした)は、権力的にけんもほろろに答弁したので、古田昌三郎議員に叱られ、さらに仲間の石郷岡文吉--当時政友会代議士でもあった--に五人の職員問題の真相を質問されたが、議長の大高歳行は議案外のこととして議事を進行した。ともあれ、市役所内の異常な状況を物語る一コマである。