雪中行軍は日露戦争を間近に控え、寒冷地であるロシアとの戦いに備えた作戦だった。雪対策は第八師団管下の部隊に課された課題でもあった。第八師団には第五連隊と第三一連隊という二つの部隊があり、これまで双方の連隊は何らかの形で雪中行軍の作戦を果たしてきた。その雪中行軍を明治三十五年(一九〇二)一月にも、両連隊が競い合うかのように実施している。しかしこの年に実施された雪中行軍は、極めて大きな意味をもち、後々軍と地域の関係を考える上で重要な問題を残すことになる。
歴史のなかで「雪中行軍」といえば、明治三十五年(一九〇二)の一月から二月にかけて、第五連隊が厳冬期の八甲田山で遭難し、二〇〇人近い死傷者を出した八甲田雪中行軍遭難事件を意味する。この事件は小説家の新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を発表し、映画『八甲田山』でも上映されたことで有名である。新田の巧みな筆致や、優秀なスタッフのもとに大物俳優が多数出演して製作された映画によって、この悲劇的事件は多くの人々に感動を与えた。事件には多くの謎があり、それが人々の興味を引き、今日まで数多くの噂を含めて語り継がれてきている。
けれども、この事件は有名な割には正確な資料が発掘されず、地元地域には秘密事項なども多かったりして、真相がなかなか語られなかった。とくに五連隊と三一連隊の遭遇の事実に関しては、最近新たな資料が発掘されるまで、最大の謎として語り継がれてきた。事件が起きてから、すでに一〇〇年以上も経った現在、新しい資料が発掘され、新たな証言者が記録を発表したりして、ようやく実証的研究が可能になってきている。その一方で、一〇〇年という長い年月が、事件を風化させたことも事実である。近年では、遭難現場のある青森県の県民でも、事件を知らない人が激増している。地元の大学生でさえ、雪中行軍の銅像がある附近を、日本で有数な心霊スポットとしては知っているが、雪中行軍遭難の事件自体は知らないというのである。そして、この傾向は年々増加している。
雪中行軍の遭難事件といえば、通常青森連隊である五連隊の遭難事件を指すが、弘前連隊である三一連隊も、ほぼ同時期に雪中行軍を試みている。当初は秘匿されていたことだったのだが、新田次郎が『八甲田山死の彷徨』で発表し、映画でも上映されたため、今では全国的に知れ渡った事実となっている。両者の行軍結果のあまりにも大きく深い落差が、いっそうこの事件の悲劇性を高めたのである。
三一連隊による雪中行軍に関しては、隊を率いた福島泰蔵中隊長の甥にあたる高木勉が福島家の資料を用いて詳細に描いている。これまであまり知られていなかった三一連隊の雪中行軍に関する研究として貴重な業績である。けれども高木が福島の甥である以上、その記述は多少割り引いて考えなければならない。また近年、三一連隊の雪中行軍に関する最新かつ詳細な著書も多数出ている。行軍の実態や経緯などはそれらに譲り、本項では三一連隊に関する謎や、雪中行軍の歴史的意義などを中心に記していきたい(近年の雪中行軍に関する分析や研究史の整理と、研究成果については、中園裕「雪中行軍はなぜ有名になったのか? 遭難事件の処理過程から」『青森県史研究』第七号、青森県、二〇〇二年を参照)。