第五連隊との遭遇

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近年、三一連隊の雪中行軍に関する資料が多数発見されている。それら資料の発見によって、何よりも我々が知りたかった事件の真相が明らかになった。三一連隊の行軍で最も謎とされたのは、やはり五連隊との遭遇事実についてであろう。ここではそれらについて記しておきたい。
 三一連隊の行動を知る上で福島中隊長が記した『雪中行軍手記』は重要な新資料である(青森県立図書館所蔵)。前出した高木勉はもちろん、その後に続いた諸研究では必ず活用されてきた資料だからである。行軍を率いた隊長が、一連の行軍過程を詳細に記しているため、三一連隊の行軍過程を知る基本資料といえよう。だが、三一連隊をめぐる最大の謎について、この手記は語ってくれていない。すなわち三一連隊が八甲田山中で二人の五連隊兵士を発見した事実についてである。三一連隊に従軍した東海記者の記事で判明したことだが、記事が発表された数日後には当該記事は姿を消し、三一連隊の壮挙とともにまったく記されなくなっている(『東奥日報』一月二十九日付号外。なお、この号外は東奥日報社に原紙がなく、コピー版を青森県立図書館が所有している)。
 けれども東海記者が記した三一連隊と五連隊の遭遇については、近年相次いで発掘された新資料によって解明されてきている。とくに行軍従事者に関する資料は、三一連隊の秘密を解き明かす上で重要な発見をもたらした。行軍に加わった泉舘久次郎伍長は『八ツ甲嶽の思ひ出』という手記で、「三十年式歩兵銃」を拾い「雪中に体半分埋れたる兵士二名の死体あり」、それが「正しく軍装を整えたる兵士」だったと記述している。同じく間山仁助伍長も『雪中行軍日記』で三十年式の歩兵銃と「兵士二名凍死せるを発見」したと記している(いずれも陸上自衛隊第九師団所蔵)。間山伍長の子息である間山重勝氏も、父が「雪だるまのように雪をかぶった兵士を見た」ことを証言している(『東奥日報』二〇〇二年一月二十七日付)。
 三本木の増沢から田茂木野まで教導を務めた川村宮蔵の娘である三上キミ子さんは「雪をかぶって倒れている兵隊を見つけた」という父の証言を伝えている(『東奥日報』二〇〇二年一月二十七日付)。もう一人の教導である苫米地吉重は、二人の凍死兵以外にも数人の凍死体に遭遇したが、福島中隊長が「手を触るゝべからず」と命じたため、結果的に五連隊兵士を見捨てたと証言を残している。苫米地はこの事実を『八甲田山麓雪中行軍秘話』にまとめ、彼の孫である福沢善八が昭和五年(一九三〇)八月に発行している(川口泰英『雪の八甲田で何が起ったのか』北方新社、二〇〇一年の二四七~二五三頁を参照)。なお、近年この『秘話』の原本であるかもしれないとされる『明治三十五年第三十一連隊雪中行軍路案内実録』が苫米地吉重氏の長男である勲氏の自宅から見つかったという(『東奥日報』二〇〇一年十一月十四日付)。
 しかしこの謎については、何よりも福島中隊長自身の言動ではっきりかたがつく。なんと福島は八甲田山麓を行軍中、二人の凍死兵を見つけたことを田茂木野で木村宣明捜索隊指揮官に復命しているからである。この事実は当時の陸軍当局がまとめた公文書の記録から判明したものである(『歩兵第五連隊雪中行軍遭難に関する委員復命書附録』より「諸官の報告」一月二十九日付、防衛庁防衛研究所図書館)。三一連隊の隊長自らが捜索隊の指揮官に告げた報告に偽りはないだろう。三一連隊は明らかに五連隊兵士と遭遇していたのである。
 両隊遭遇の事実が語られなかったのは、小説や映画と同じように、福島中隊長が隊員や教導たちに口止めしたからだろう。彼がそのようにしなければならなかったのは、五連隊の行軍将兵が天皇から戦死者同様の待遇と認められていたからである。一月二十七日の最初の遺体発見からすでに五連隊の将兵は殉国者扱いされていた。帰営直後から政治的圧力が福島中隊長にかけられた可能性もある。政治的圧力は東海記者の従軍記が検閲で処分されたことからもわかる。前述したように、『東奥日報』の保存紙は従軍記が書かれた前後約一〇日分が存在していない。東海記者の実妹である境タミさんも、東海記者が関係当局から、なんらかの政治的圧力を受けていたことを証明している(『東奥日報』一九七七年一月二十三日付)。