明治三十七年(一九〇五)二月十日、日本はロシアに宣戦布告した。日清戦争を戦って一〇年後、日本は欧米列強と初めて本格的な戦争をすることになった。弘前市民や青森県民にとっても、この戦争は身近な戦争となった。戦場こそ朝鮮半島や中国大陸であり、青森県はそこから最も遠い位置にあった。しかし郷土師団たる第八師団が大陸出征したり、津軽海峡にロシア艦隊が出没したり、樺太からロシア人捕虜が弘前にやってくるなど、弘前市民にとって日露戦争は、極めて身近な戦争を意識する場となっていたことに着目したい。
開戦翌日の二月十一日、ロシア海軍のウラジオストク艦隊四隻の軍艦が津軽海峡に現れ、青森・秋田県境の艫作(へなし)沖で、日本の商船を撃沈した。この事件は戦場が遠いと思われていた弘前市民にも非常な衝撃を与えた。ロシアという国が実際には非常に近い国であり、郷土が戦場になる危険性を認識させたのである。ウラジオストク艦隊のゲリラ的な出没と砲撃により、日本側は制海権を奪えず苦戦していた。開戦後、半年の間は郷土が前線となる可能性が高かったのである。
けれども八月になって、朝鮮蔚山(ウルサン)沖の海戦で日本がウラジオストク艦隊を大破し、制海権を奪ってからは、ようやく戦場が青森県付近から遠ざかるようになった。それに応じて弘前市民の戦争熱も薄くなり、軍人の歓送迎がおろそかになるなど、戦争に関する市民の関心はほとんどなくなってしまう。郷土師団たる第八師団が出征せず、留守師団として内地に留まっていたのが最大の理由であろう。
その第八師団も六月七日に動員されることになった。当時の日本は全部で一二の師団が常備していた。そのうち第七・第八師団以外は、すでに戦場に動員されていた。それだけ日本軍も苦戦していたのである。第八師団は大阪に滞在した後、十月八日大陸に渡り、越年することになった。郷土師団たる第八師団に動員令が下り、いよいよ大陸に出征してからは、弘前市民の戦争熱も高まった。地域の人々の戦争に対する関心は、やはり郷土師団の活躍がなければ高まらない。地域の人々にとっては、戦場での郷土将兵の活躍や損傷こそ、自らも関与する戦争なのである。国民としての戦争という意識より、郷土人としての戦争という意識が強いのである。