あけび蔓細工業の発達

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弘前市周辺地にはあけびが自生しており、その蔓を利用した細工物の生産が盛んであった。あけび蔓細工の始まりは、岩木山の山麓にある嶽温泉の土産物として製産したのが濫觴(らんしょう)であるといわれる(「産業諸説」『津軽産業会会報』四)。当初の製品は、味噌通、手籠、小児玩具等であった。あけび蔓細工が外国にまで普及するようになった理由の一つは、弘前の弘盛合資会社の活動であった。同社は、社員を横浜や神戸に派遣して輸出向け商品の見本を検討し、地元に戻って製造者に注文を出すということを繰り返した(同前)。その後の製品については、次のように評価されている。
明治三十七年の聖易路(セントルイス)世界博覧会に於て、本県同業組合の名を以て出品したる木通(あけび)蔓細工は、金牌を得、翌三十八年白耳義(ベルギー)博覧会に於て、弘盛合資会社の出品は又た優等賞を得たるを始め、各共進会博覧会等に於ても、第一位の優等賞を受け、本県の製品は慥(たしか)に全国に冠たるの位置にあり、木通蔓細工と云へは、本県を聯想せしめつゝあるは、目下の現状てある、斯る位置に一たひ進みたる、本県は更に一発展をなして、益々その名誉を発揮せねはならぬことなれは、吾人詰らぬ言辞を弄せしものとせすして、充分の注意を払はれんことは、吾人の同業者に希望して止まぬ次第てある。
(『津軽産業会会報』四)


写真88 あけび蔓製品の当時の広告

 あけび蔓細工の改良すべき点は多々あり、製品のデザインや、同業者団体の結成などが問題であった。ことに同業者団体の結成は、生産地相互の反目もあり、困難であった(同前)。また原料の漂白も改良の余地があり、次の提言がなされている。
木通蔓細工の骨子とも云ふへきは、即ち蔓の製法と漂白の方法を一定することなり、其製法々に渉り其漂白一定せさらんか、到底其製品をして世界に名をなさしむるに至ることは出来んと思ふ、今日は現に統一なく、製作人は原料を買取り銘々製造し漂白する為め、各自の製品共に々となり、蔓に細大あり、色に白黒ありて、青森県と云ふ名の下に於て実に遺憾てある、のみならす重要物産としては耻(はじ)入る次第てある、左れは之れを如何せは適法なるへきかと云ふに、先つ本県に於ては官営的施設を以て、或る山元に於て原料を一手販売するの方法を設け、一定の製法と漂白法とにより製造せしめ、之れを製作人に販売するの法規を設くるにあり、製作人をして原料を々に製せしむるときは、如何に改良を絶叫するも徒労に了ることてあると思ふ、斯る前途有望の物産にして一朝施設を誤るときは、遂に其業を敗頽(たい)せしむるに至るを以て返す返すも注意を払はれんことを切に望むのてある、若し木通蔓細工は全国中他に同業者なき場合はイサ知らす、隣県秋田の如きは近年我と競争して我を凌駕せんとの意気込なるを以て、彼れをして名を為さしめんとせは、我れ亦た大に勉精する所なくて叶はぬ所てある、故に之れ等本業の骨子と云ふへき原料の製法と漂白のことは之れを製作人のみに放任することなく、本県庁に於て随一に世話焼様にならねは、此迄発達の斯業も頓挫を来たしことなきを期されす、本県庁は之の間に世話してこそ、大に成効を呈すへけれ、本県庁は之れを等閑視するなくんは可なりてある、吾人は信し本県庁は必す此際専門の技師を聘用し、此の事業を奨励するの刻下の急務に迫り居ることを、而して原料の製品より漂白は勿論、意匠と製作を始め販路上に一大便宜を与るの方針を講せられ、本県の木通蔓細工をして世界に名をなさしむる的の、方法を取られたきことてある、この原料製造所を設くると云ふことは、仮令は一ノ渡、小沢、相馬、目屋、百沢、大鰐、温湯、中村、赤石等の如き、蔓の産出地を指定して、県庁に於て原料買占め、製造の上販売する販売人を許可し、県庁示す所の標準に基き製品し、之れを製作人に販売すると云ふ仕込みにして、之れを判り易く解説すれは、所謂煙草官営の如く、蔓の漂白迄は製作人の手に依らすして、販売人に於て一切経営せしめ、製作人は之れを買取りて製造することゝせは、原料は一定して本県の面目を発揮するに至らんと思ふ、されは製作人は剥皮漂白の煩なき上に、良き蔓を使用して能き製作をなすを得へきなり、何にせよ本県庁は充分心を傾けて、斯業を奨励せられたきなり。
(同前)