小学校令が公布された明治十九年当時、日本全国の学齢児童の三分の二は、授業料を払うことのできない貧困家庭に属していた。森文部大臣はそれらを入学させる手段として、簡易科設置を実施した。簡易小学校は授業料を徴収せず、教科書は学校で貸与した。また、児童の就学が家庭内の労働力を奪うことを考慮し、授業時数は一日に二時間以上三時間以内に抑えた。学科は読書、習字、作文、算術とし、算術は総授業時数の半ば以上たるべきとした。また、簡易科に限って、学校経費は全額区町村が支出することとした。
十九年七月県が小学校簡易科の教則を定めると、中津軽郡の大半が簡易科設置に踏み切った。郡はこれで未就学児童が大幅に減少するものと期待した。ところが事実は逆で、簡易小学校の設置はかえって未就学児童の増加を促した。その原因の一つは、やはり学費の問題があった。簡易科は授業料や教科書が無料になっただけで、学用品代や通学に用する服装などの出費、通学による児童の家庭内労働力の流出など、就学には父母の経済的負担がつきまとっていた。原因の二つ目は、簡易小学校が貧民学校視されて、差別と蔑視を受けたことが挙げられる。
経済的犠牲を払って、子どもを就学させたものの、尋常小学校の児童に蔑(さげす)まれ、露骨な差別を受けたのでは児童はもちろん、父母にとっても堪えがたい苦痛だったに違いない。事実、簡易小学校は、児童ばかりでなく担任する教員までが、簡易科教員の名称で、小学校訓導や尋常科教員より低い地位に置かれた。このような差別が簡易科の不振につながり、森文部大臣の遠大な計画と期待にもかかわらず、明治二十三年公布、同二十五年実施の改正小学校令のもと、簡易小学校はわずか数年で小学校現場から消滅した。