明治二十二年(一八八九)二月十一日、この日は紀元節であり、また「大日本帝国憲法」発布の式典が行われる日であった。森文部大臣は式典に参列するため、馬車の用意を待っていたが、折から面会を求めてきた西野文太郎に腹部を深く刺され、翌十二日午後十一時三十分に逝去した。年齢わずかに四十三歳であった。西野の斬奸(ざんかん)趣意書に「文部大臣森有禮之(これ)ニ参詣シ、勅禁ヲ犯シテ靴ヲ脱セズ殿ニ昇リ、杖ヲ以テ神簾ヲ揚ゲ、其中ヲ窺ヒ、膜拝(ぼはい)セズシテ出ヅ、云々」とあったが、これはかつて森が伊勢神宮へ参拝したとき、不敬の所為があったという噂が世間に流布して、それを信じた西野が森暗殺の挙に出たものであった。
もともと森は欧化主義者と見られ、キリスト教をもって日本の国教とするのではないか、とまで疑われた。これは森の合理主義が誤解されたもので、欧化主義者どころか彼は国家主義者であった。彼が行った急進的な国家主義教育の推進をみても、それは明らかである。ただ、森文部大臣は、明治天皇侍講(じこう)元田永孚たちの、天皇を神とする極端な国教主義者から反感を持たれていた。森は一見、元田らの考える天皇制教育を否定したかに見えるが、その実、彼の国家主義教育は、天皇制教育の土台を培っていた。森の死の直後から、澎湃(ほうはい)として湧き上がった天皇中心の教育政策を見れば、それが理解できるであろう。
森文部大臣の死は、全国の教育関係者に大きな衝撃を与えた。ことにその死に先立つわずか四ヵ月前、親しく大臣の言動に接した弘前の教員たちは、大臣の死を悼んで葬儀の日は休日とした(注、森文部大臣は二十一年十月十五日から本県に入り、弘前訪問は十九日、弘前高等小学校を視察後、教員及び学事関係者を集めて熱弁をふるい、多大の感銘を与えた)。