私達の運動会は弘前名物と云われる程の一大行事でした。服装は長袖に紅白のたすき、紫紺の袴に白足袋はだしで、種目は大体今の競技と同じようでしたが、その勇壮可憐な姿は人々の注目の的でした。中にも二年、三年の亜鈴体操、全校生徒のスケーチング・ダンス、殊にその姿で補習科及び四年合同の天女の舞を演ずる光景は恰(あたか)も天人の羽衣を思わせる一大絵巻で、会場立錐の余地なき見物人の万雷の拍手を浴びたものでした。
(前掲『母校今昔』)
写真113 弘高女運動会賞品授与(大正初年)
見物人にはもう一つの目的があって、この場をかりてよくよく選定し、その後お百度参りで懇望され、卒業をまたずに嫁に行く生徒も何人かあったといい、それは遠足の際にも同様で、「嫁さがし」についてくる市民が少なからずいたという。
また、この手記には、中学生の参観を禁じ、塀の外から見ている学生を監視員が追い払うさまも描かれている。当時は日露戦争の大勝をうけて、戦後という一種の風紀退廃の風潮から女学生に附文(つけぶみ)(恋文)を出す者が激増した時代でもあった。学校では純潔の風を保つため、恋文をもらったときはかってに処分せず、学校へ持ってきて、教師に提出するよう「附文された時の心得」を与えるなどもしており、運動会から中学生を締め出すことと併せて、当時の風潮から女子生徒を守ろうとする苦心がうかがわれるエピソードである。
明治四十三年十月には、高等女学校令が改正され、高等女学校にも実科教育に関する規定が設けられた。学問にのみ偏っているという批判から、社会の要請にこたえるために、裁縫、家事、手芸などの家政科系の科目を重視する方針が採られるようになるなど、変遷はあったが、女子教育もいよいよ充実期に入っていくのである。