そのころ、松森町の「角は」呉服店(宮川久一郎)では、農村によく売れた巻手織(一反八〇銭ぐらい)と京手織(一反一円前後、実は名古屋もの)が当たって大繁盛であった。二十二年、久一郎の弟富太郎がこの京手織の卸商を看板にして、「角み」の屋号で東長町の旧二津屋跡に開店した。当時弘前の卸商といえば、角三(宮本甚兵衛)、扇有(阿部豊吉)、一戸善三郎、それに大阪から来た中川元三郎等であったが、これらに伍して「角み」は着実に基礎を固め、既に述べたとおり二十六年の農村好景気に乗じて下土手町に移り、三階建ての洋館建築で近代的な呉服店の経営を始め、和徳町久一こと鳴海伝次郎、松森町「角は」(のち代官町、さらに下土手町に移転)こと宮川久一郎とともに、明治中期から大正中期まで、いわゆる弘前の三大呉服店と称されて互いに繁栄を競ったのである。
写真125 本町・阿部呉服店
さて、明治新風俗の一つである婦人のショールは、初め外国から入り、二十年代に京都西陣で綿織のショールがつくり出されてから国内に流行するようになった。弘前でも上流の間でまず用いられたが、一般に普及しだした三十年ごろからは、新たに流行し始めた吾妻コートを着る者が注目を浴びた。
当時、この町の婦人が新流行の衣服を飾り、華奢を競うようになったのは、外来の有閑階級であった将校夫人たちの影響が大きかった。
師団設置後、将校の市内に居住する者多く、これ等生活の程度を見るに、多くは弘前市民に比して驕奢を極むること甚し。特に婦人に至りては、恰も遊女の如き異装をなして市内を散歩するものあり。縮緬の紋付羽織に上等糸織の着物、繻珍と友染の腹合わせにしたる帯をしめ、三井の流行新柄にあらざれば身にせざるが如き風あり。為に地方人も非常なる感化を受けて一般に衣服を飾らんとするの風をなせしは、本市のため慨かはしきことと言はざるべからず。
(『弘前案内』明治三十七~八年刊)
これはその実状の一斑を語るものと言うべきであろう。こうして新織物が逐年上方各地から入ってきた中で、地元の手織物は染色も不充分で上方物とは比べられなかった。しかし、亀甲町で機業と染職を兼ねていた広野五郎は、三十年代の末に目倉縞(めくらじま)の本場に行って、自ら職工となって苦心し、新しい織染めを案出して帰郷した。そして二十余台の機械を注文して製品をつくり、売り出したが、一反一円三〇銭で光沢も耐久力も上方移入品に勝るという評判であった。これに伴って、津軽手織(「弘前手織」ともいう)はさらに品質や縞柄なども改良されて、四十年八月の税務署の調べでは、五月には六一一〇反であったものが六月には六九二四反、そして七月には七四四〇反という生産高の上昇ぶりであった。
二十年以後になるとネルが入ってきた。金木屋や久一などの店頭に、ネル織の三〇ヤール巻きが並べられた。農村の若者の中には、ネルのシャツに東京仕立ての股引をはき、腹掛けに足袋をはいて新しがる者もあった。ライオン印のシャツと股引の値段は、そのころ玄米一俵以上と言われたが、四民平等のありがたさで、百姓でも金さえあれば何でも買える時世であった。日露戦後はいよいよ西洋物が幅を利かす時代になった。
そのころ、市内の呉服店にはまだ呉服の陳列所などはなく、店の構えは錦絵に見る「江戸駿河町の越後屋」という様式で、番頭の座席の上には「忠七」などとその名を大書した紙を下げ、店の奥には帳場が格子机を前に座っていた。客の注文に応じて番頭が丁稚(でっち)に言いつけて、奧の蔵から反物を運び出させて見せたものであった。番頭が丁稚を呼び、品物を触れたりすると、その呼び声にはみな特徴があり、価段はその店独自の片仮名符牒でつけてあった。
三十九年の「角み」「角は」両呉服店の夏衣売り出しの景況は、軒頭に無数の灯籠をつるし、屋上からは四方に万国旗を張り渡した装飾であった。この後に八月から夏物見切品の売り出しをしたが、この時から両店とも顧客の要望に応じて初めて陳列所を設けることになった。
「角み」では、百石町の白井の跡に陳列所を常設した。前方に木綿、奥座敷に絹布を並べ、金屏風を飾り、休憩所を設け、八方に姿見をかけるなど、東京の三井呉服店の陳列場を縮小した観があるという評判であった。一方、「角は」では、店内に飾り人形を置き、下に木綿、二階に絹布を並べ、奥に休憩室があった。夜間のろうそく代が一晩に四円もかかったという。