出家と禅画

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佐藤禅忠は、明治十六年(一八八三)一月二十九日弘前市和徳町に生まれた。父佐藤忠正(旧津軽藩士)、母つやの三男、幼名を忠三という。十三歳のときに腸チフスにかかり重態となったが、姉しげの不眠の看病で快癒、しかし、姉しげは伝染して死んだ。このとき忠三は姉の菩提を弔うために出家することを決意した。この後、県立弘前中学校に入学して三十六年に卒業したが、この間、禅僧千崎如幻仏苗学園でも学んだ。仏苗学園は中土手町赤湯にあった。忠三は幼少から書画、武道を好み、ねぷた絵を画(か)いては常に一位を得たという。
 忠三の長兄忠雄は佐藤ドクトルと言われた有名な医師、十歳年上だが、東京慈恵医学校卒業後、ドイツのミュンヘン大学に留学、博士号を取得した。三十七年帰国して順天堂病院に勤務するが、間もなく弘前に帰り、元寺町に「弘前佐藤医院」を開業、市民から「佐藤ドクトル」の愛称で親しまれた。次兄正雄が陸軍将校という家庭環境で、忠三も中学卒業後、進学のため上京した。しかし、姉の死のこともあり、人生に悩み、千崎如現の師、釈宗演の門を叩き、明治四十年の初夏、鎌倉東慶寺で宗演に血書の願書を捧げ、宗演は忠三の志が堅いことを知って師弟の約束をした。そして八月、弘前の長勝寺に来て忠三の出家に反対する父忠正を説得、忠正も承諾するに至った。
 忠三は、翌四十一年二十六歳の春、東慶寺で得度、法名禅忠を称した。そして九月、京都市花園の妙心寺へ掛錫(かしゃく)すべく雲水行脚(あんぎゃ)に出立した。十月妙心寺へ到着、修行が始まった。満三年の苦しい修行の後、いったん鎌倉に帰山、宗演の隠侍となった。そして大正二年(一九一三)二月、宗演に随行して台湾を巡錫(じゅんしゃく)、このとき宗演の命で風物象を筆写した。この記録は、昭和十年、釈宗演の詩と禅忠画による詩画帖『水雲行』として出版された。大正四年には、尼寺の東慶寺で初めて男性で住職となった古川堯道の自叙伝『擔板漢』の挿絵を描いた。大正五年には東慶寺の鐘楼が落慶したが、禅忠はその天井に龍を描いた。

写真135 佐藤禅忠「十牛図」