それでも大正天皇の大演習参加を危険視する声は鎮まらなかった。大正天皇に対して、国民の間に病弱な天皇という意識が強かったことがうかがえよう。明治維新後、憲法を発布し、日清・日露戦争の勝利を導いた明治天皇への国民感情と比較し興味深い事実である。明治天皇に対し「明治大帝」という意識が国民の間に定着し、天皇の死とともに、一つの時代が終わったとの印象を深く国民に植え付けたことは、夏目漱石の証言でも有名である。
大演習が弘前市で開催され、天皇来弘が決定すると、開催地である青森県当局は歓迎と準備に忙殺された。まずは警備対策だった。県当局は「住民心得」を配布するなど、天皇行幸に対する県民・市民への対応に厳しい注意を通達している。儀式・儀礼に対する配慮はもちろんのこと、天皇を歓迎するため街の清掃も徹底している。とくに伝染病患者を隔離するなど、衛生対策を執拗に実施している。お召し列車の試運転も行うなど、天皇の大演習参加は一般の天皇行幸と同様、執拗かつ綿密に実施し、厳重な警備体制下に行われた。大演習の開催に対応する地元当局、とくに県や市当局の準備は大変だったのである。
天皇の行幸は地方民にとって非常に大きな影響を与えた。天皇の来迎は一方で過剰なほどの警備と警戒を呼び起こし、大袈裟(げさ)すぎるほどの歓迎策がとられる。前者は伝染病患者の隔離や、要視察人に対する視察の徹底など、国民監視体制の強化をもたらした。後者は多分に演出的効果を狙ったものであり、天皇来迎時に目前に演じられる風景からは、人々の天皇に対する信頼や慕情を募る効果をもたらすだろう。大演習は表面的には軍事目的のために実施され、地域と軍隊を密接に結びつける上で非常に重要な役割を果たしていた。しかしそのほかにも天皇に対する人々の忠誠を引き出す上で、たいへん大きな意味をもっていたのである。
写真159 大演習宣伝絵はがき
天皇の行幸は、行幸を迎える地域にとっても、市域内の変化をもたらした。天皇来迎に併せて市内を整備清掃し、施設を新規に建築したり、改築改装するなど、市内の模様替えが行われた。青森市の場合でも、大正天皇が皇太子時代に結婚した際、青森市公会堂を造ったり、皇太子が青森市に行啓した記念に安方桟橋を新築するなど、市域内の整備に着手している。天皇をはじめ、皇族の地域への行幸啓は、政治的・思想的な影響だけでなく、社会基盤の整備もなされ、その地域がもつ空間的な意味合いにも相当な影響を及ぼしているのである。
写真160 安方桟橋