りんごの病虫害とその対策

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りんご栽培大正期になると栽培面積が拡大し、米と並んで津軽の基幹的産業として発展していったが、頻発する病虫害の発生のために存亡の危機に立たされた。明治期に木洗い、袋かけ等の普及で小康状態にあった病虫害は、再び大正期に激発した。その原因は、生産と経営の構造そのものにあった。つまり、雇用労働に依存する大規模経営では、労働集約的な技術に対応できず、一時克服されたかに見えた綿虫、介殼虫、長介殼虫、ハマキ虫、尺取虫、青虫、毛虫、リンゴハバチ、オオミノムシが大正期に激発した。
 もともと、りんご士族は栽培技術について開発を担ってきた自負心を有していたが、その知識の多くは体験の域を出ていなかった。しかし、大正期に、多くの病害が頻発し、アカダニのような捕殺不可能な害虫が繁殖したことから、根本的な解決策のためには学問に裏付けられた技術の導入が必要となった。
 生産者と県が共同して行った国への働きかけが実現し、明治四十四年(一九一一)、県農事試験場に病理担当として三浦道哉(みうらみちや)が赴任した。三浦は、秋田県出身で、東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)を卒業した植物病理学の専門家であった。三浦は、りんごの病虫害、特に大発生していた早期落葉病の原因が褐斑病(かっぱんびょう)にあることをつきとめ、その防除対策としてボルドー液の撒布(さんぷ)を奨励したが、薬害(落葉)を心配する生産者は容易には受け入れようとはしなかった。そこで、大正三年(一九一四)、当時、「りんごの神様」と尊称されていた外崎嘉七(とのさきかしち)の協力を得て、嘉七の果樹園向陽園において生産者の目の前でボルドー液の撒布を行った(後述)。これが好成績を収めたために、撒布技術は広く普及し、大正末期には、褐班病は克服された(斎藤康司『りんごを拓いた人々』、筑波書房、一九九六年)。

写真171 大正5年当時の県農事試験場メンバー
(前列右から3人目が三浦道哉、5人目が島善鄰)