本県におけるトラホームの蔓延は全国の首位を占め、その予防治療は本県保健上の大問題となっていた。県内小学校では明治三十七年度(一九〇四)からトラホーム検診予防を実施してきたが、検診者の三〇%から三八%が罹患者であった。弘前市内各小学校ではトラホーム治療について、明治三十四年ごろから積極的に児童ならびに父兄に働きかけていた。
ところが、大正に入って、入学児童の増加とともにトラホーム患者もそれにつれて多くなり、むしろ明治時代より増加している実情に、市では市立弘前病院の中に「弘前市立トラホーム治療所」を設置し、同病院医師石郷岡正男を所長に嘱託してトラホーム撲滅に乗り出した。石郷岡所長は各小学校に学校看護婦の配置を要望、みずから巡回指導して罹患児童の洗眼に当たった。
大正六年四月、石郷岡医師が和徳小学校児童・職員七一二人を検診したが、「トラホーム患者、重三、中六八、軽二二〇、計二九一、疑似一七、其ノ他ノ眼疾一二四、百分比四〇・七三」という結果が出た。全校児童職員の四〇・七三%がトラホーム患者とは驚くべき高罹患率である。しかもこれには疑似の一七人が含まれていない。さらに驚くべきことは、トラホーム以外の眼病患者が一二四人もあることだ。これを合計すると全校の六〇・六%が眼疾者である。市当局がトラホーム治療所を設け、専任の医師と学校看護婦を配置してトラホーム一掃に乗り出したのも当然である。
しかし、トラホーム治療の成果は遅々たるもので、一朝一夕では全治しない。加えて家庭の貧困による不衛生な環境が治療を妨げる。石郷岡医師が各校を巡回し、学校看護婦が毎日学校に出勤して罹患児童の洗眼に従事するが、トラホーム撲滅にはこの後も長い歳月を必要とした。表59は『東奥日報』掲載の大正六年七月の市内小学生・幼稚園児のトラホーム罹患状況である。
表59 弘前生徒の虎病(トラホーム) |
越人員 | 治 療 日 数 | 全治 | 月末現在 | |||
五日以内 | 十五日以内 | 三〇日以内 | ||||
弘前高等 | 八二 | 三 | 二五 | 五一 | 一七 | 六四 |
時敏尋高 | 二八三 | 三五 | 五三 | 一二六 | 一九 | 二六二 |
朝陽尋常 | 一七八 | 三四 | 三四 | 四〇 | 六 | 一七二 |
第一大成 | 一二二 | 五 | 五 | 一一二 | 六 | 一一六 |
第二大成 | 二四四 | 二八 | 四七 | 四八 | 三 | 二四一 |
城西尋常 | 二四一 | 三四 | 二二 | 一八 | 三 | 二三五 |
和徳尋常 | 二六三 | 四二 | 五八 | 一一一 | 二〇 | 二四一 |
計 | 一、四一三 | 一八一 | 二四四 | 五〇六 | 七四 | 一、三三一 |
弘前幼稚 | 一八 | 〇 | 一 | 一七 | 〇 | 一八 |
児能花 | 八 | 一 | 四 | 〇 | 〇 | 八 |
養生幼稚 | 七 | 〇 | 〇 | 七 | 〇 | 七 |
愛光幼稚 | 二三 | 一一 | 七 | 五 | 四 | 一九 |
若葉幼稚 | 一〇 | 一 | 一 | 八 | 〇 | 一〇 |
計 | 六六 | 一三 | 一三 | 三七 | 四 | 六二 |
『東奥日報』大正六年九月三日付 |
(備考)所轄外へ移転は弘前高等一、時敏尋常二、城西尋常三、和徳尋常二なり |