初めての常設館・慈善館

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大正三年九月、富田住吉通りに弘前初の活動写真常設館として慈善館が誕生した。ここは、富田の師団通りにつながっていたので開業当初から繁盛し、翌四年の陸軍特別大演習の人出に備えて増築した。その際、屋上にトンガリ帽子の音楽堂を載せ、毎夕そこから楽隊がジンタを流して客寄せを始めた。それが夕空を震わせて、高くなり低くなりして、市内の相当遠くまで響きわたり、一種独特の風物詩が醸し出されていった。この常設館はたちまちにして弘前名物の一つとなり、軍隊が近いだけに、日曜日の兵隊の外出日には盛況で割れんばかりのにぎわいが見られた。

写真200 慈善館

 慈善館を開館したのは、「孤児院のオドサ」の愛称で人々になじまれていた東北育児院(現弘前愛成園)の創設者・佐々木五三郎である。明治維新後の急激な社会変動の中で、ひずみとして生じた社会的貧困は国の政策として何ら顧みられず、社会福祉事業が立法化され制度化されるのは、ようやく第二次世界大戦後のことである。この福祉という概念も公的助成金もなかった時代の明治三十五年、本町で薬種業を営んでいた佐々木は、大凶作により路頭に迷い、食べる物を探して徘徊する貧童孤児の惨状を見かね、自宅に子供たちを引き取り養育を始めた。東北育児院の始まりである。
 佐々木五三郎とその妻は、自分の子と孤児たちすべての父母となり、乏しい家計をやりくりしての食事支度から洗濯まで、一切の面倒を見た。明治三十八年には、すでに収容児は二〇人を超えるに至ったため、自宅では狭隘(きょうあい)となり、新寺町円明寺裏に移転した。その後も人数は増え続け、維持費の捻出に苦労し、みずから先頭に立って子供たちとともにちり紙やロウソクを行商し、その合間に街頭演説をしては慈善事業についての関心を訴えたのである。明治四十一年からは、活動写真の巡回興行による資金稼ぎを始め、これにより経営難から救われたが、さらに安定性のある資金源として活動写真常設館を創設した。佐々木は、映画の幕合には壇上に登り、「諸君よ、諸君」と呼んで孤児救済と社会事業の必要性を力説し続け、「慈善館のオドサ」とも叫ばれ、親しまれ続けた。

写真201 佐々木五三郎