昭和六年(一九三一)からの連続災害、とくに劣悪な凶作が続いた青森県にとって、農村の根本的更生は不可欠な事業だった。その改善策の一つとして推進されたのが、満州移民の推進策に基づく開拓事業だった。青森県ではその事業の具体化を、昭和十三年以降、満州分村計画として進めてきており、分村開拓民を基幹とする新満州青森村の実現に向けて邁(まい)進中だった。
その際、青森県当局が県民に対し「我等が誇る国宝師団の多大の犠牲によつてかち得た彼の満蒙の沃野みすみす他県人、半島人ましてや他国人に埋められてはならぬ」と説得していることは注目されよう。青森県当局が督促していた新満州青森村の実現も、大局的には文部省が進めていた満州建設勤労奉仕隊の活動の一環であった。満州国で開拓政策を促進し、日満を通ずる食糧飼料の増産も目的としていた。また農耕開拓を通じて勤労奉仕を実践し、青年訓練と大陸認識の付与を兼ねていた事業でもあった。
これらの事業が官製による満州移民の促進計画だったことは否めなかった。満州に夢を求め、移民に希望を託して大陸に渡った人々は多かった。東北の大凶作で身売りせざるを得なかった女性のなかには、大陸花嫁、満州花嫁として移民となった者も多かった。けれども満州の地が想像していたよりは不毛の土地であり、移民に対する処遇が劣悪だったりして、移民を忌避する傾向が強まった。その必然的な結果として、満州移民策は半ば当局の強制的措置となっていった。
今次の大戦中、日本本土の都市部の多くが空襲を受け、数多くの人々が罹災している。ところが満州が空襲されることはほとんどなく、その意味で平和な暮らしを送った移民がいたことも確かである。しかし敗戦間際のソ連侵攻時に、満州移民たちは関東軍に見捨てられ、悪夢ともいえる引揚げをしたのである。そのためソ連に抑留され、長期にわたり過酷な労働に従事させられた人々も数多く存在した。彼らが抑留生活から逃れて内地に戻り、その想像を絶する労苦を体験談としてまとめた著書は数多く出版されている。弘前市民による著書も多い。ソ連軍の攻撃や抑留のさなかに命を落とした人々もいた。辛うじて内地に帰ることができた人々も、その後の人生に深い傷を負うことになった。満州移民がもたらした負の遺産は、しっかりと歴史にとどめ、決して忘れてはならないことなのである。